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ゴミ置き場で見つかった三十年前の卒業アルバム

田中[たなか]京子[きょうこ]がゴミ袋[ごみぶくろ]を持っ[もっ]てマンションの集積[しゅうせき]所[しょ]へ向かっ[むかっ]たのは、火曜日[かようび]の朝[あさ]、まだ人影[ひとかげ]のない静か[しずか]な時間帯[じかんたい]だった。朝[あさ]の冷たい[つめたい]空気[くうき]が肌[はだ]を刺し[さし]、街[まち]全体[ぜんたい]がまだ眠り[ねむり]の中[なか]にいるような静寂[せいじゃく]が漂っ[ただよっ]ていた。

ゴミ置き場[おきば]の隅[すみ]に、誰[だれ]かが無造作[むぞうさ]に段ボール[だんぼーる]箱[ばこ]を置い[おい]ていた。箱[ばこ]の口[くち]は大きく[おおきく]開い[ひらい]ていて、中[なか]からはみ出し[はみだし]ていたのは、表紙[ひょうし]の日焼け[ひやけ]した一[いち]冊[さつ]の本[ほん]だった。近づい[ちかづい]てみると、それは卒業アルバム[そつぎょうあるばむ]だった。背表紙[せびょうし]には「昭和[しょうわ]六十三[ろくじゅうさん]年度[ねんど]卒業[そつぎょう]、立花[たちばな]中学校[ちゅうがっこう]」と金色[きんいろ]の文字[もじ]で刻ま[きざま]れている。

捨てる[すてる]ゴミを傍ら[かたわら]に置い[おい]たまま、京子[きょうこ]は少し[すこし]考え[かんがえ]た。誰[だれ]かが間違え[まちがえ]て捨て[すて]たのか、それとも意図的[いとてき]に過去[かこ]を断ち切る[たちきる]ために捨て[すて]たのか。どちらにしても、このまま放っ[はなっ]ておくのは忍び[しのび]ない。そんな直感[ちょっかん]に逆らえ[さからえ]ず、彼女[かのじょ]はアルバムを拾い上げ[ひろいあげ]た。ずっしりと重い[おもい]その本[ほん]には、誰[だれ]かの三十[さんじゅう]年[ねん]分[ぶん]の記憶[きおく]が詰まっ[つまっ]ているように感じ[かんじ]られた。

部屋[へや]に戻り[もどり]、テーブルの上[うえ]でページをめくってみると、三十[さんじゅう]年[ねん]前[まえ]の中学生[ちゅうがくせい]たちが次々[つぎつぎ]と現れ[あらわれ]た。髪型[かみがた]も制服[せいふく]も、どこか懐かしい[なつかしい]ような、滑稽[こっけい]なような。写真[しゃしん]には名前[なまえ]が書か[かか]れていたが、知っ[しっ]ている顔[かお]は一[ひと]つもなかった――最後[さいご]のページを開く[ひらく]までは。

卒業式[そつぎょうしき]の集合[しゅうごう]写真[しゃしん]の隣[となり]に、一[いち]枚[まい]の個人[こじん]写真[しゃしん]があった。女の子[おんなのこ]がまっすぐカメラを見[み]ている。くりくりとした目[め]、少し[すこし]細い[ほそい]顎[あご]。どこかで最近[さいきん]見[み]た顔[かお]だ。名前[なまえ]を確認[かくにん]する。「濱田[はまだ]早苗[さなえ]」。あの、隣[となり]の濱田[はまだ]さんの娘[むすめ]さんだろうか。

隣[となり]の部屋[へや]に住む[すむ]濱田[はまだ]八重子[やえこ]は、このマンションにもう二十[にじゅう]年[ねん]以上[いじょう]住ん[すん]でいると管理人[かんりにん]から聞い[きい]たことがある。だが、挨拶[あいさつ]をしても返事[へんじ]がろくに返っ[かえっ]てこない。若い[わかい]住人[じゅうにん]たちは「気難しい[きむずかしい]人[ひと]だ」と噂[うわさ]していたし、京子[きょうこ]自身[じしん]も、引っ越し[ひっこし]てきてから二[に]年[ねん]が経つ[たつ]のに、まともな会話[かいわ]をしたことがなかった。彼女[かのじょ]の部屋[へや]からは、時折[ときおり]、重苦しい[おもくるしい]沈黙[ちんもく]の気配[けはい]が漏れ出し[もれだし]ているような気[き]がしていた。

だからといって、返さ[かえさ]ないわけにもいかない。その日[ひ]の午後[ごご]、京子[きょうこ]はアルバムを抱え[かかえ]て隣[となり]の扉[とびら]をノックした。何度[なんど]か叩い[たたい]ても、すぐには反応[はんのう]がなかった。もう帰ろう[かえろう]としたちょうどそのとき、鍵[かぎ]の外れる[はずれる]音[おと]がした。

「何[なん]ですか」ドアが少し[すこし]だけ開い[ひらい]て、濱田[はまだ]八重子[やえこ]が顔[かお]を出し[だし]た。七十[ななじゅう]代[だい]に見える[みえる]、白髪[はくはつ]の小さな[ちいさな]女性[じょせい]だ。その目[め]には、はっきりとした警戒[けいかい]の色[いろ]がある。京子[きょうこ]は努め[つとめ]て穏やか[おだやか]に言っ[いっ]た。「あの、今朝[けさ]ゴミ置き場[おきば]でこれを見つけ[みつけ]まして。もしかして、こちらのものではないかと思っ[おもっ]て」

八重子[やえこ]の目[め]がアルバムに向い[むい]た。その瞬間[しゅんかん]、彼女[かのじょ]の表情[ひょうじょう]が劇的[げきてき]に変わっ[かわっ]た。固い[かたい]仮面[かめん]が剥がれ落ちる[はがれおちる]ような――その奥[おく]に、深い[ふかい]悲しみ[かなしみ]と驚き[おどろき]が混ざり合っ[まざりあっ]た何[なん]かが浮かび上がっ[うかびあがっ]た。

「……どこで」「ゴミ置き場[おきば]の段ボール[だんぼーる]箱[ばこ]の中[なか]に。今朝[けさ]、たまたま」

八重子[やえこ]はしばらく黙っ[だまっ]ていた。京子[きょうこ]は手渡す[てわたす]べきかどうか迷い[まよい]、ただアルバムをそっと前[まえ]に差し出し[さしだし]た。老女[ろうじょ]の手[て]が、震え[ふるえ]ながらゆっくりとアルバムを受け取っ[うけとっ]た。指[ゆび]が表紙[ひょうし]を撫でる[なでる]。その様子[ようす]を見[み]ながら、京子[きょうこ]は「間違え[まちがえ]て捨て[すて]たんですよね、きっと」と言おう[いおう]とした。

「……捨て[すて]たんですよ」先[さき]に八重子[やえこ]が言っ[いっ]た。声[こえ]が、さっきよりずっと低い[ひくい]。「捨て[すて]た、つもりだったんです。もう見[み]ていても辛い[つらい]だけだから。でも、捨て[すて]た後[あと]から、どうしようもなく後悔[こうかい]していたところだったんです」

八重子[やえこ]の言葉[ことば]には、弁解[べんかい]でも感謝[かんしゃ]でもない何[なん]かが混じっ[まじっ]ていた。うまく名前[なまえ]のつけられないその感情[かんじょう]が、なぜか京子[きょうこ]の胸[むね]に静か[しずか]に刺さっ[ささっ]た。彼女[かのじょ]は娘[むすめ]を亡くし[なくし]たのかもしれない、あるいは、何[なん]か取り返し[とりかえし]のつかない別れ[わかれ]があったのかもしれない。京子[きょうこ]は何[なん]も聞か[きか]なかった。

「……そうでしたか」それ以上[いじょう]、二人[ふたり]は何[なん]も言わ[いわ]なかった。八重子[やえこ]もありがとうとは言わ[いわ]なかった。ドアは静か[しずか]に閉まっ[しまっ]た。廊下[ろうか]に一人[ひとり]残さ[のこさ]れた京子[きょうこ]は、少し[すこし]の間[あいだ]その場[ば]に立っ[たっ]ていた。何[なん]か大切[たいせつ]なものの端[はし]に触れ[ふれ]てしまったような――そして、触れ[ふれ]てよかったような――そういう感覚[かんかく]が、うまく整理[せいり]できないまま、胸[むね]の中[なか]にあった。

翌朝[よくあさ]、ゴミ置き場[おきば]に向かう[むかう]と、段ボール[だんぼーる]箱[ばこ]はきれいになくなっていた。京子[きょうこ]は小さく[ちいさく]息[いき]を吐き[はき]、いつものようにゴミを捨て[すて]て、足早[あしばや]にマンションを後[あと]にした。