初演後に楽譜を焼いた作曲家
B2 · Music & Arts
岡崎[おかざき]誠一[せいいち]が自分[じぶん]の音楽[おんがく]に何[なん]かを「言わ[いわ]せてしまった」と気づい[きづい]たのは、初演[しょえん]の夜[よる]、ホールの暗がり[くらがり]の中[なか]でオーケストラの演奏[えんそう]を聴い[きい]ている最中[さいちゅう]だった。作曲家[さっきょくか]として二十[にじゅう]年[ねん]のキャリアを持つ[もつ]誠一[せいいち]は、批評家[ひひょうか]から「技術的[ぎじゅつてき]には完璧[かんぺき]だが、感情[かんじょう]に乏しい[とぼしい]」と評さ[ひょうさ]れることが多かっ[おおかっ]た。それは彼[かれ]にとって侮辱[ぶじょく]ではなく、むしろ勲章[くんしょう]のようなものだった。感情[かんじょう]とは制御[せいぎょ]を失う[うしなう]ことだと、彼[かれ]は信じ[しんじ]ていたからだ。
新作[しんさく]「失わ[うしなわ]れた声[こえ]」を書き[かき]始め[はじめ]たのは、三[さん]年[ねん]前[まえ]のことだった。娘[むすめ]の明日香[あすか]と取り返し[とりかえし]のつかない言い争い[いいあらそい]をした直後[ちょくご]のことで、彼女[かのじょ]は大学[だいがく]入学[にゅうがく]を機[き]に家[いえ]を出[で]ていった。それ以来[いらい]、ふたりの間[あいだ]では年[ねん]に数[すう]回[かい]のそっけないメッセージが交わさ[かわさ]れるだけだった。誠一[せいいち]は自分[じぶん]に言い聞かせ[いいきかせ]ていた。この曲[きょく]は感情[かんじょう]の話[はなし]ではなく、純粋[じゅんすい]な構造[こうぞう]の実験[じっけん]だ、と。しかし演奏[えんそう]が第[だい]二[に]楽章[がくしょう]に入っ[はいっ]た瞬間[しゅんかん]、全身[ぜんしん]が凍りつい[こおりつい]た。主題[しゅだい]のメロディーは、明日香[あすか]が幼い[おさない]ころに口ずさん[くちずさん]でいた歌[うた]の断片[だんぺん]だったのだ。
それに気づい[きづい]たのは、おそらく誠一[せいいち]が最後[さいご]だっただろう。カーテンコールの後[あと]、ロビーには拍手[はくしゅ]と批評家[ひひょうか]たちの賛辞[さんじ]が満ちあふれ[みちあふれ]ていた。誠一[せいいち]は笑顔[えがお]で礼[れい]をしたが、胸[むね]の中[なか]には奇妙[きみょう]な不快感[ふかいかん]が居座っ[いすわっ]ていた。まるで、鍵[かぎ]のかかった引き出し[ひきだし]を誰[だれ]かにこじ開け[こじあけ]られたような感覚[かんかく]だった。そのとき、人込み[ひとごみ]の端[はし]に明日香[あすか]の姿[すがた]を見[み]た。彼女[かのじょ]はコートを抱え[かかえ]てロビーの隅[すみ]に立ち[たち]、誠[まこと]一と目[ひとめ]が合う[あう]と小さく[ちいさく]頷い[うなずい]た。近づい[ちかづい]てはこなかった。何[なん]も言わ[いわ]なかった。しかし、その目[め]はすべてを知っ[しっ]ていた。誠一[せいいち]が人込み[ひとごみ]をかき分け[かきわけ]て彼女[かのじょ]に近づこう[ちかづこう]としたとき、明日香[あすか]はすでに出口[でぐち]から姿[すがた]を消し[けし]ていた。
深夜[しんや]、アパートに戻っ[もどっ]た誠一[せいいち]はデスクの上[うえ]の総譜[そうふ]を手[て]に取り[とり]、長い[ながい]間[あいだ]見つめ[みつめ]た。もし他[ほか]の誰[だれ]かがこの曲[きょく]を演奏[えんそう]すれば、同じ[おなじ]ことが起きる[おきる]だろう。聴衆[ちょうしゅう]は感動[かんどう]し、批評家[ひひょうか]は賞賛[しょうさん]するかもしれない。しかし、この音楽[おんがく]が本当[ほんとう]に向け[むけ]られていた相手[あいて]は、もうそれを聴い[きい]てしまった。今更[いまさら]この楽譜[がくふ]を、世界[せかい]と共有[きょうゆう]し続ける[つづける]ことに意味[いみ]があるだろうか。彼[かれ]はベランダに出[で]て、ライターで総譜[そうふ]の端[はし]に火[ひ]をつけた。炎[ほのお]は静か[しずか]に、しかし確実[かくじつ]に紙[かみ]を飲み込ん[のみこん]でいった。
翌朝[よくあさ]、音楽[おんがく]事務所[じむしょ]から電話[でんわ]がかかってきた。「追加[ついか]公演[こうえん]のオファーが来[き]ています。それから楽譜[がくふ]の出版[しゅっぱん]についても――」「楽譜[がくふ]はありません」と、誠一[せいいち]は答え[こたえ]た。「え?どういう……」「なくなりました」電話[でんわ]口[くち]の沈黙[ちんもく]は長かっ[ながかっ]た。誠一[せいいち]はそれを、窓[まど]の外[そと]を眺め[ながめ]ながら静か[しずか]に待っ[まっ]た。
三[みっ]日[か]後[ご]、明日香[あすか]から短い[みじかい]メッセージが届い[とどい]た。「お父さん[おとうさん]。あの曲[きょく]の中[なか]に、私[わたくし]がいた気[き]がした」誠一[せいいち]はその一[いち]文[ぶん]を何度[なんど]も読み返し[よみかえし]た。彼女[かのじょ]が「いた」と断言[だんげん]せず、「気[き]がした」と書い[かい]たことに、なぜか安堵[あんど]を覚え[おぼえ]た。扉[とびら]は半分[はんぶん]しか開い[ひらい]ていない――しかし、少なく[すくなく]とも完全[かんぜん]には閉まっ[しまっ]ていなかった。楽譜[がくふ]を焼い[やい]たことを後悔[こうかい]しているかと聞か[きか]れれば、誠一[せいいち]は正直[しょうじき]に答え[こたえ]られないだろう。ただ、もし焼か[やか]なければ、あのメッセージを送る[おくる]ことはなかったかもしれない、とは思う[おもう]。