龍神が守る湖に沈んだ村の鐘
B2 · Myths & Legends
凛[りん]が山奥[やまおく]の村[むら]に戻っ[もどっ]てきたのは、祖母[そぼ]の四十九[よんじゅうきゅう]日[にち]の法要[ほうよう]が終わっ[おわっ]た翌日[よくじつ]のことだった。かつては子供たち[こどもたち]の笑い声[わらいごえ]が響い[ひびい]ていた路地[ろじ]も、今[いま]では雑草[ざっそう]が伸び[のび]放題[ほうだい]で、深い[ふかい]静寂[せいじゃく]が村[むら]を支配[しはい]していた。人口[じんこう]は三十[さんじゅう]年[ねん]前[まえ]の半分[はんぶん]以下[いか]になり、商店[しょうてん]のシャッターはほとんど閉ざさ[とざさ]れたままだ。村[むら]の中心[ちゅうしん]にある「鏡[きょう]ヶ湖[みずうみ]」だけが、昔[むかし]と同じ[おなじ]ように、周囲[しゅうい]の山々[やまやま]を映し出し[うつしだし]ながら静か[しずか]に光[ひかり]を反射[はんしゃ]していた。
その湖[みずうみ]には、古く[ふるく]から言い伝え[いいつたえ]があった。何百[なんびゃく]年[ねん]か前[まえ]、ある冬[ふゆ]の嵐[あらし]の夜[よる]、村[むら]の寺[てら]の鐘[かね]が湖[みずうみ]に落ち[おち]たという。鐘[かね]を引き上げよう[ひきあげよう]とした村人[むらびと]たちは、翌朝[よくあさ]、湖[みずうみ]の岸[きし]に奇妙[きみょう]な言葉[ことば]が刻ま[きざま]れた石[いし]を発見[はっけん]した。「鐘[かね]は我が[わが]元[もと]に置く[おく]。村[むら]が正しき[まさしき]道[みち]を外れる[はずれる]とき、鐘[かね]は鳴る[なる]。」それが龍神[りゅうじん]の言葉[ことば]だと、人々[ひとびと]は信じ[しんじ]てきた。
凛[りん]の祖母[そぼ]はその話[はなし]をよく語っ[かたっ]た。子供[こども]のころ、凛[りん]はその話[はなし]を夢中[むちゅう]で聞い[きい]たものだ。しかし大人[おとな]になってからは、そういう伝説[でんせつ]を素直[すなお]に信じる[しんじる]のは難しく[むずかしく]なっていた。大学[だいがく]で民俗学[みんぞくがく]を少し[すこし]かじった彼女[かのじょ]には、龍神[りゅうじん]伝説[でんせつ]とは村[むら]の貴重[きちょう]な水源[すいげん]である湖[みずうみ]を守る[まもる]ために、先人[せんじん]たちが作っ[つくっ]た戒め[いましめ]のようなものだろうという見方[みかた]のほうがしっくりきた。
それでも、今回[こんかい]の帰省[きせい]で耳[みみ]にした噂[うわさ]は、どうしても胸[むね]に引っかかっ[ひっかかっ]た。村議会[そんぎかい]が、大手[おおて]開発業者[かいはつぎょうしゃ]に湖[みずうみ]の周辺[しゅうへん]土地[とち]を売却[ばいきゃく]する計画[けいかく]を進め[すすめ]ているというのだ。リゾートホテルを建て[たて]、都市部[としぶ]からの観光客[かんこうきゃく]を呼び込む[よびこむ]。経済的[けいざいてき]には理[り]にかなっているかもしれない。しかし、凛[りん]の頭[あたま]の中[なか]では、祖母[そぼ]の厳しく[きびしく]も優しい[やさしい]声[こえ]が響い[ひびい]た。「湖[みずうみ]を売っ[うっ]てはいけない。龍神[りゅうじん]様[さま]がお怒り[いかり]になる。」
その夜[よる]、凛[りん]は眠れ[ねむれ]なかった。午前[ごぜん]二[に]時[じ]ごろ、彼女[かのじょ]は祖母[そぼ]の家[いえ]を出[で]て、湖[みずうみ]へと向かっ[むかっ]た。星明かり[ほしあかり]の下[もと]、水面[すいめん]は黒く[くろく]静まり返っ[しずまりかえっ]ていた。凛[りん]は岸[きし]に立ち[たち]、冷たい[つめたい]空気[くうき]をゆっくりと吸い込ん[すいこん]だ。祖母[そぼ]のことを考え[かんがえ]、村[むら]の未来[みらい]を考え[かんがえ]、そして二十[にじゅう]年[ねん]前[まえ]に村[むら]を捨て[すて]た自分[じぶん]の選択[せんたく]を考え[かんがえ]た。
そのとき、聞こえ[きこえ]た。最初[さいしょ]は水[みず]の音[おと]だと思っ[おもっ]た。しかし違っ[ちがっ]た。低く[ひくく]、深く[ふかく]、胸[むね]の奥[おく]まで響く[ひびく]ような重厚[じゅうこう]な音[おと]だった。鐘[かね]の音[おと]だった。湖[みずうみ]の底[そこ]から、確か[たしか]に聞こえ[きこえ]てくる鐘[かね]の音[おと]だった。凛[りん]は動け[うごけ]なかった。音[おと]は一度[いちど]だけ鳴り[なり]、それからまた静寂[せいじゃく]が戻っ[もどっ]た。水面[すいめん]には波紋[はもん]ひとつなかった。
次[つぎ]の朝[あさ]、凛[りん]は村議会[そんぎかい]の議員[ぎいん]の一人[ひとり]である叔父[おじ]に会い[あい]に行っ[いっ]た。「昨夜[さくや]、鐘[かね]の音[おと]が聞こえ[きこえ]た」と彼女[かのじょ]は言っ[いっ]た。叔父[おじ]は一瞬[いっしゅん]、表情[ひょうじょう]を強張ら[こわばら]せた。しかしすぐに苦笑い[にがわらい]を浮かべ[うかべ]、「寝不足[ねぶそく]だったんだろう」と答え[こたえ]た。凛[りん]は食い下がっ[くいさがっ]た。「本当[ほんとう]に聞こえ[きこえ]たの。嘘[うそ]じゃない。」
叔父[おじ]はしばらく黙っ[だまっ]ていた。それから、消え入り[きえいり]そうな声[こえ]で言っ[いっ]た。「俺[おれ]も、聞こえ[きこえ]た。十[じゅう]年[ねん]前[まえ]に、山[やま]を削る[けずる]開発[かいはつ]の話[はなし]が出[で]たときにもな。」
二人[ふたり]の間[あいだ]に、重い[おもい]沈黙[ちんもく]が落ち[おち]た。叔父[おじ]はコーヒーカップを見つめ[みつめ]たまま、それ以上[いじょう]何[なん]も言わ[いわ]なかった。凛[りん]は村[むら]を去る[さる]前日[ぜんじつ]、もう一[いち]度[ど]湖[こ]のほとりに立っ[たっ]た。龍神[りゅうじん]が本当[ほんとう]にいるのかどうか、彼女[かのじょ]にはわからなかった。鐘[かね]の音[おと]が幻聴[げんちょう]だったのかもしれない。しかし確か[たしか]なことが一[ひと]つあった。自分[じぶん]が二十[にじゅう]年間[ねんかん]、見[み]ないようにしてきたものが、この湖[みずうみ]の底[そこ]に沈ん[しずん]でいるということだ。それが鐘[かね]なのか、罪悪感[ざいあくかん]なのか、あるいは祖母[そぼ]へのおわびなのか、凛[りん]にはうまく言葉[ことば]にできなかった。
帰り[かえり]のバスの中[なか]で、彼女[かのじょ]はスマートフォンを取り出し[とりだし]た。そして村[むら]の開発[かいはつ]計画[けいかく]に反対[はんたい]するオンライン署名[しょめい]のページを開き[ひらき]、自分[じぶん]の名前[なまえ]を入力[にゅうりょく]した。湖[みずうみ]が今[いま]も静か[しずか]でいるかどうか、凛[りん]にはもう確かめる[たしかめる]方法[ほうほう]がなかった。それでも、何[なん]かが変わっ[かわっ]た気[き]がした。