Den sidste arving til en Kyomachiya
B1 · Relationships & Drama
春花[はるか]が祖母[そぼ]の家[いえ]に着い[つい]たとき、京都[きょうと]の空[そら]は灰色[はいいろ]だった。
東京[とうきょう]から新幹線[しんかんせん]で約[やく]二[に]時間[じかん]半[はん]。その間[あいだ]ずっと、春花[はるか]は窓[まど]の外[そと]を見[み]ていた。田んぼ[たんぼ]や山[やま]が見える[みえる]たびに、心[こころ]の中[なか]で何[なん]かが締め付け[しめつけ]られる感じ[かんじ]がした。
五[ご]年[ねん]ぶりに帰っ[かえっ]てきた。でも「帰っ[かえっ]てきた」という言葉[ことば]が正しい[ただしい]かどうか、春花[はるか]にはわからなかった。
祖母[そぼ]の澄子[すみこ]は、西陣[にしじん]の細い[ほそい]路地[ろじ]の奥[おく]に立っ[たっ]ていた。腰[こし]が少し[すこし]曲がっ[まがっ]て、前[まえ]より小さく[ちいさく]見え[みえ]た。
「よう来[き]てくれたね」と澄子[すみこ]は言っ[いっ]た。声[こえ]は温かかっ[あたたかかっ]たが、疲れ[つかれ]ているようだった。
築[ちく]百五十[ひゃくごじゅう]年[ねん]の町家[まちや]の玄関[げんかん]を開ける[あける]と、古い[ふるい]木[き]と畳[たたみ]のにおいがした。春花[はるか]はそのにおいを、子ども[こども]のころからずっと覚え[おぼえ]ていた。懐かしい[なつかしい]と思う[おもう]気持ち[きもち]と、重い[おもい]と感じる[かんじる]気持ち[きもち]が同時[どうじ]にやってきた。
「おばあちゃん、体[からだ]の具合[ぐあい]はどう?」
「大丈夫[だいじょうぶ]、大丈夫[だいじょうぶ]。お医者[いしゃ]さんが少し[すこし]休め[やすめ]って言う[ゆう]から、あなたに来[き]てもらったんよ」
でも春花[はるか]は、澄子[すみこ]の顔[かお]を見[み]て「大丈夫[だいじょうぶ]ではないかもしれない」と思っ[おもっ]た。
次[つぎ]の朝[あさ]、春花[はるか]は早く[はやく]目[め]が覚め[さめ]た。台所[だいどころ]に行く[いく]と、テーブルの上[うえ]に封筒[ふうとう]があった。「京都[きょうと]開発[かいはつ]株式会社[かぶしきがいしゃ]」という名前[なまえ]が書い[かい]てあった。
中[なか]を見[み]てはいけないと思っ[おもっ]たが、封筒[ふうとう]はすでに開い[ひらい]ていた。紙[かみ]を少し[すこし]引き出す[ひきだす]と、「買い取り[かいとり]金額[きんがく]:八千万[はちせんまん]円[えん]」という文字[もじ]が見え[みえ]た。
八千万[はちせんまん]円[えん]。春花[はるか]の手[て]が止まっ[とまっ]た。
その日[ひ]の夜[よる]、夕飯[ゆうはん]を食べ[たべ]ながら、春花[はるか]は思い切っ[おもいきっ]て聞い[きい]た。「おばあちゃん、テーブルの上[うえ]の封筒[ふうとう]……不動産会社[ふどうさんがいしゃ]から来[き]たやつ、見[み]てしまった」
澄子[すみこ]はお箸[はし]を置い[おい]た。しばらく何[なん]も言わ[いわ]なかった。
「いつから交渉[こうしょう]してるの?」と春花[はるか]は続け[つづけ]た。
「半年[はんとし]ぐらい前[まえ]から、向こう[むこう]が何度[なんど]も連絡[れんらく]してきてね」澄子[すみこ]はゆっくり言っ[いっ]た。「断り[ことわり]続け[つづけ]てたんやけど、先月[せんげつ]また手紙[てがみ]が来[き]て」
「なんで教え[おしえ]てくれなかったの?」
澄子[すみこ]は春花[はるか]の目[め]を見[み]た。「あなたは東京[とうきょう]で、ちゃんと自分[じぶん]の仕事[しごと]を持っ[もっ]て生き[いき]てる。この家[いえ]のことで、あなたの人生[じんせい]を変え[かえ]てほしくなかった」
その言葉[ことば]が、春花[はるか]の胸[むね]に刺さっ[ささっ]た。
「私[わたくし]、逃げ[にげ]たみたいに東京[とうきょう]へ行っ[いっ]たから……おばあちゃんは怒っ[おこっ]てると思っ[おもっ]てた」
「怒っ[おこっ]てへんよ」澄子[すみこ]は静か[しずか]に笑っ[わらっ]た。「あなたが自分[じぶん]の道[みち]を探し[さがし]てるのを、ずっと応援[おうえん]してた。この家[いえ]は私[わたくし]が守る[まもる]。それだけよ」
その夜[よる]、春花[はるか]は眠れ[ねむれ]なかった。縁側[えんがわ]に座っ[すわっ]て、坪庭[つぼにわ]を見[み]ていた。月[つき]の光[ひかり]が苔[こけ]の上[うえ]に落ち[おち]て、静か[しずか]できれいだった。
この家[いえ]には百五十[ひゃくごじゅう]年[ねん]分[ぶん]の記憶[きおく]がある。ここで生まれ[うまれ]た人[ひと]たち、ここで泣い[ない]た人[ひと]たち、笑っ[わらっ]た人[ひと]たち。
私[わたくし]は今まで[いままで]、この重さ[おもさ]を「逃げ[にげ]なければいけない理由[りゆう]」だと思っ[おもっ]ていた。でも本当[ほんとう]は、この重さ[おもさ]が「ずっと守ら[まもら]れていた」ということだったかもしれない。
翌朝[よくあさ]、春花[はるか]は澄子[すみこ]に言っ[いっ]た。「おばあちゃん、私[わたくし]、しばらくここで仕事[しごと]してみようかと思う[おもう]。グラフィックの仕事[しごと]はパソコンさえあればどこでもできるから」
澄子[すみこ]は少し[すこし]驚い[おどろい]た顔[かお]をした。それから、ゆっくりと目[め]を細め[ほそめ]て言っ[いっ]た。「急が[いそが]なくていいよ。ゆっくり考え[かんがえ]て」
「もう考え[かんがえ]た」と春花[はるか]は言っ[いっ]た。
路地[ろじ]に朝[あさ]の光[ひかり]が差し込ん[さしこん]できた。京都[きょうと]の朝[あさ]は、東京[とうきょう]より少し[すこし]だけ静か[しずか]だと春花[はるか]は思っ[おもっ]た。そして初めて[はじめて]、その静けさ[しずけさ]を「いい」と感じる[かんじる]ことができた。