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三十年間、同じ席に座り続けた男

田中[たなか]清[きよし]は、毎朝[まいあさ]七[しち]時[じ]に「珈琲[こーひー]館[かん]マルミ」へ入る[はいる]。窓[まど]の近く[ちかく]、一番[いちばん]左[ひだり]の隅[すみ]の席[せき]。三十[さんじゅう]年間[ねんかん]、ずっとその席[せき]だった。

その朝[あさ]、清[きよし]が店[みせ]に入る[はいる]と、いつもの席[せき]に若い[わかい]女性[じょせい]が座っ[すわっ]ていた。彼女[かのじょ]はノートパソコンを開い[ひらい]て、何[なん]かを一生懸命[いっしょうけんめい]に打っ[うっ]ていた。

清[きよし]は入り口[いりぐち]で少し[すこし]立ち止まっ[たちどまっ]た。「まあ、しょうがない」と心[こころ]の中[なか]で思い[おもい]、反対[はんたい]側[がわ]の席[せき]に腰[こし]を下ろし[おろし]た。いつもの場所[ばしょ]から見える[みえる]景色[けしき]とは少し[すこし]違う[ちがう]。窓[まど]の外[そと]の銀杏[ぎんなん]の木[き]が、なんとなく遠く[とおく]感じ[かんじ]た。

マスターの橋本[はしもと]さんがコーヒーを持っ[もっ]てきた。橋本[はしもと]さんは清[きよし]と同い年[おないどし]で、三十[さんじゅう]年[ねん]来[らい]の友人[ゆうじん]だ。「今日[きょう]は違う[ちがう]席[せき]ですね」と橋本[はしもと]さんは静か[しずか]に言っ[いっ]た。「ああ。あの若い[わかい]人[ひと]が座っ[すわっ]ているから」と清[きよし]は答え[こたえ]た。「怒っ[おこっ]ていますか?」「いや、別[べつ]に」と清[きよし]は言っ[いっ]た。しかし、少し[すこし]正直[しょうじき]ではなかったかもしれない。

しばらくして、女性[じょせい]がカバンを探し[さがし]始め[はじめ]た。財布[さいふ]を出そう[だそう]として、彼女[かのじょ]の顔[かお]がだんだん青く[あおく]なった。「あの……すみません」彼女[かのじょ]は橋本[はしもと]さんに小さな[ちいさな]声[こえ]で言っ[いっ]た。「財布[さいふ]を家[いえ]に忘れ[わすれ]てしまいました。本当[ほんとう]に申し訳[もうしわけ]ないんですが、後[あと]で必ず[かならず]お支払い[しはらい]します——」「いいですよ、気[き]にしないで」と橋本[はしもと]さんが言う[いう]前[まえ]に、清[きよし]が立ち上がっ[たちあがっ]た。「私[わたくし]が払い[はらい]ます」と清[きよし]は言っ[いっ]た。

女性[じょせい]は驚い[おどろい]て清[きよし]を見[み]た。「え?でも……どうして?」清[きよし]はゆっくり席[せき]に戻り[もどり]ながら、言葉[ことば]を選ん[えらん]だ。「あなたが座っ[すわっ]ているその席[せき]、私[わたくし]は三十[さんじゅう]年間[ねんかん]、毎朝[まいあさ]使っ[つかっ]ていました。今日[きょう]初めて[はじめて]、他[た]の人[ひと]が座っ[すわっ]ているのを見[み]たんです」「ごめんなさい!知ら[しら]なかったから——」「いえ」と清[きよし]は首[くび]を振っ[ふっ]た。「あなたのせいじゃないです。ただ、その席[せき]には大切[たいせつ]な理由[りゆう]があって。三十[さんじゅう]年[ねん]前[まえ]、妻[つま]にプロポーズした場所[ばしょ]なんです。妻[つま]は三[さん]年[ねん]前[まえ]に亡くなり[なくなり]ました。それからも毎朝[まいあさ]ここに来[き]て、同じ[おなじ]席[せき]に座っ[すわっ]てコーヒーを飲ん[のん]でいます。その席[せき]にいると……妻[つま]がまだ隣[となり]にいるような気[き]がするから」

店[みせ]の中[なか]が静か[しずか]になった。橋本[はしもと]さんはカウンターの向こう[むこう]で、何[なん]も言わ[いわ]なかった。女性[じょせい]はしばらく黙っ[だまっ]てから、小さく[ちいさく]言っ[いっ]た。「私[わたくし]が今日[きょう]ここに来[き]たのは……実[じつ]は、昨日[きのう]失恋[しつれん]したばかりで。家[いえ]にいたくなかったんです。どこかに逃げ[にげ]たかった」

清[きよし]は少し[すこし]微笑ん[ほほえん]だ。「それは辛かっ[つらかっ]たですね」「でも、大切[たいせつ]な席[せき]に座っ[すわっ]てしまって、本当[ほんとう]にごめんなさい」「いいんですよ」と清[きよし]は言っ[いっ]た。「むしろ、今日[こんにち]気[き]がついたことがあります。妻[つま]は、あの席[せき]から銀杏[ぎんなん]の木[き]を見る[みる]のが好き[すき]でした。でも私[わたくし]はいつも自分[じぶん]が座る[すわる]ことに夢中[むちゅう]で、妻[つま]がどんな景色[けしき]を見[み]ていたのか、本当[ほんとう]の意味[いみ]では知ら[しら]なかった。今日[きょう]、反対[はんたい]側[がわ]から見[み]て初めて[はじめて]わかりました。とても綺麗[きれい]な景色[けしき]ですね」

女性[じょせい]の目[め]に、涙[なみだ]がそっと浮かん[うかん]だ。清[きよし]は窓[まど]の外[そと]に目[め]を向け[むけ]た。銀杏[ぎんなん]の葉[は]が、秋[あき]の光[ひかり]の中[なか]でゆっくりと揺れ[ゆれ]ていた。三十[さんじゅう]年間[ねんかん]、妻[つま]はずっとこの景色[けしき]を見[み]ていたのだ。コーヒーがまだ温かかっ[あたたかかっ]た。