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Kvinnelig maler fra Taisho-perioden som fortsatte å publisere under et mannsnavn i femten år

一九二一年の秋、帝国美術展覧会の審査会場は、独特の緊張感に包まれていた。審査委員たちは、ある画家の作品の前で足を止め、感嘆の声を漏らした。その絵は、深川の運河を描いたものだった。水面に揺れる夕暮れの光、荷を運ぶ男たちの疲れた背中、そして遠くに霞む工場の煙。そこには、当時の日本の風景が持つ哀愁と力強さが同居していた。

「桐島清之助という男は、いったい何者だろう」委員の一人が腕を組みながらそう言った。その絵には、どこか繊細すぎるほどの筆致が見られたが、誰もそれを口にしなかった。男の名前で出品された作品に、そんな疑いを向けることは礼儀に反すると考えられていたからだ。しかし、その絵の裏側には、十五年もの間、誰にも明かされることのない秘密が隠されていた。桐島清之助の本名は、桐島澄江といった。

澄江が初めて男の名で絵を発表したのは、一九〇七年のことだ。当時、彼女は二十二歳で、師匠の画塾で誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで筆を握っていた。しかし、展覧会に女の名で応募すると、審査員の反応は常に冷淡だった。「女らしい絵だ」という言葉は、決して褒め言葉ではなかった。それは、彼女の芸術が真剣に受け取られていないという宣告に等しかった。当時の美術界において、女性の感性は家庭的で装飾的なものと見なされ、社会の深淵を描くことは許されていなかったのだ。

ある夜、彼女は師匠の家に残された古い落款印を見つけた。「清之助」という名が彫ってあった。師匠の若い頃の名だと後で知ったが、そのとき澄江はただ、その文字が持つ凛とした力強さに強く惹かれた。翌年の展覧会に、彼女は「桐島清之助」として応募した。結果は、一等賞だった。

その後十四年間、澄江は清之助として絵を描き続けた。清之助の評判は高まり、画廊のオーナーたちはこぞって会いたがった。澄江はいつも「体調が優れない」という理由で面会を断り続けた。手紙のやりとりだけで、彼女は「男」としての地位を完璧に守り抜いた。それは孤独な戦いだったが、自分の絵が正当に評価される喜びは、何物にも代えがたかった。

しかし一九二一年の秋、帝展の委員会から一通の招待状が届いた。特別賞を授与したい、つきましては授賞式に出席していただきたい、と書いてあった。澄江は手紙を三日間、机の引き出しにしまっておいた。それは、彼女の二重生活が終わることを意味していた。

四日目の朝、彼女は筆を取った。しかし絵を描くためではなかった。返事を書くために、だ。

「このたびのご選考には、深く感謝申し上げます。しかしながら、諸般の事情により、授賞式への出席はかないません」手紙を封筒に入れながら、澄江は窓の外を見た。隅田川の水が、秋の光を受けて静かに輝いていた。十五年前の自分が、あの光をどう描けばいいかわからなくて、夜中に泣いた記憶がある。今の自分なら描ける。清之助として、そして澄江として。

受賞の知らせは翌日の新聞に載った。桐島清之助の名前が、活字になって世に出た。澄江はその記事を切り取り、長年使い込んだ木箱の底にしまった。その箱の中には、師匠の落款印と、彼女が初めて清之助の名で描いた小さなスケッチが入っていた。

彼女が本名を名乗るのは、それからさらに六年後のことだ。そのときすでに、清之助の名声は揺るぎないものになっていた。名前が変わっても、絵は変わらなかった。そのことに、澄江は静かな誇りを感じていたという。彼女は自分のアイデンティティを隠したのではなく、芸術のために新しい名前を創造したのだと、ようやく自分自身を許すことができたのである。