Kara Gemilerin Gelişi Arifesinde Yazılmış Bir Mektup
B2 · History
嘉永[かえい]六[ろく]年[ねん]六[ろく]月[がつ]某[ぼう]夜[よる]。浦賀[うらが]の沖合[おきあい]に、黒い[くろい]煙[けむり]を吐く[はく]巨大[きょだい]な船[ふね]が姿[すがた]を現す[あらわす]という噂[うわさ]は、すでに江戸[えど]中[ちゅう]に広まっ[ひろまっ]ていた。
田中[たなか]誠之助[せいのすけ]は、行灯[あんどん]の薄明かり[うすあかり]の下[もと]で筆[ふで]を握りしめ[にぎりしめ]、何度[なんど]目[め]かの書き直し[かきなおし]をしていた。手紙[てがみ]の宛先[あてさき]は、故郷[こきょう]の父[ちち]、田中[たなか]源兵衛[げんべえ]――六十[ろくじゅう]を過ぎ[すぎ]た今[いま]も、徳川[とくがわ]の治世[ちせい]こそが天下[てんか]の正道[せいどう]だと信じ[しんじ]て疑わ[うたがわ]ない、生涯[しょうがい]一度[いちど]も江戸[えど]の外[そと]に出[で]たことのない男[おとこ]だ。
「父[ちち]上[じょう]、」と誠之助[せいのすけ]は書き[かき]始め[はじめ]たが、すぐに筆[ふで]が止まっ[とまっ]た。何[なん]を書け[かけ]ばいい?「異国[いこく]の船[ふね]が来[き]ます」などと書い[かい]ても、父[ちち]には想像[そうぞう]もできないだろう。あの黒鉄[こくてつ]の怪物[かいぶつ]が、煙[けむり]と蒸気[じょうき]を吐き[はき]ながら風[ふう]に逆らっ[さからっ]て進む[すすむ]姿[すがた]を。
誠之助[せいのすけ]は、三[さん]年[ねん]前[まえ]から密か[ひそか]に蘭学[らんがく]を学ん[まなん]でいた。師[し]は江戸[えど]の片隅[かたすみ]で蘭書[らんしょ]を訳す[やくす]老学[ろうがく]者[しゃ]で、口癖[くちぐせ]のように言っ[いっ]ていた。「異国[いこく]の技術[ぎじゅつ]を恐れ[おそれ]てはならん。しかし、恐れ[おそれ]ずにはいられない自分[じぶん]たちの無知[むち]を、もっと恐れ[おそれ]なければならん」と。その言葉[ことば]の意味[いみ]が、今夜[こんや]ほど骨身[ほねみ]に染み[しみ]たことはなかった。
噂[うわさ]によれば、来航[らいこう]する艦隊[かんたい]の大砲[たいほう]の数[かず]は、浦賀[うらが]奉行所[ぶぎょうしょ]が持つ[もつ]すべての火力[かりょく]を上回る[うわまわる]という。誠之助[せいのすけ]にはそれが誇張[こちょう]ではないとわかっていた。師[し]から借り[かり]た蘭書[らんしょ]の中[なか]に、蒸気[じょうき]機関[きかん]による軍艦[ぐんかん]の記述[きじゅつ]があったからだ。書か[かか]れた数字[すうじ]は、冷静[れいせい]に読ん[よん]でいるつもりでも、体[からだ]が震える[ふるえる]ほどの差[さ]だった。
同僚[どうりょう]たちは「いざとなれば神風[かみかぜ]が吹く[ふく]」と言う[ゆう]。誠之助[せいのすけ]はその言葉[ことば]に、何[なん]も言い返せ[いいかえせ]なかった。反論[はんろん]すれば、蘭書[らんしょ]を読ん[よん]でいることがばれるかもしれない。幕府[ばくふ]の禁[きん]を犯し[おかし]た者[もの]として、処罰[しょばつ]を受ける[うける]かもしれない。しかし今夜[こんや]、誠之助[せいのすけ]が本当[ほんとう]に恐れ[おそれ]ているのは、そのことではなかった。彼[かれ]が恐れ[おそれ]ているのは――父[ちち]に、真実[しんじつ]を告げる[つげる]ことだった。
父[ちち]は今頃[いまごろ]どこかで、「この国[くに]は磐石[ばんじゃく]だ」と孫[まご]に語っ[かたっ]て聞か[きか]せているだろう。二百[にひゃく]年[ねん]以上[いじょう]、戦[いくさ]もなく、外国[がいこく]船[せん]も寄せつけ[よせつけ]なかった。それは誇る[ほこる]べき平和[へいわ]だった。しかしその平和[へいわ]が、明日[あす]にも終わる[おわる]かもしれない。
誠之助[せいのすけ]は再び[ふたたび]筆[ふで]を取っ[とっ]た。「父[ちち]上[じょう]。この手紙[てがみ]が届く[とどく]頃[ころ]には、世の中[よのなか]の様子[ようす]がいくらか変わっ[かわっ]ているかもしれません。どうかご自愛[じあい]ください。何[なん]があっても、慌て[あわて]ぬようにお伝え[つたえ]ください」。書い[かい]てみると、何[なん]とも頼りない[たよりない]言葉[ことば]だった。真実[しんじつ]の半分[はんぶん]も伝え[つたえ]ていない。しかし、もし真実[しんじつ]をすべて書け[かけ]ば、父[ちち]を傷つける[きずつける]だけかもしれない。それとも、知っ[しっ]ておくべきだろうか。人[ひと]は、自分[じぶん]の世界[せかい]が崩れる[くずれる]とわかっていても、その事実[じじつ]と向き合う[むきあう]権利[けんり]を持っ[もっ]ているのではないか。
迷い[まよい]ながらも、誠之助[せいのすけ]は最後[さいご]に一[いち]行[ぎょう]付け加え[つけくわえ]た。「この国[くに]は、これから大きく[おおきく]変わる[かわる]かもしれません。しかし私[わたくし]は、変化[へんか]の中[なか]にこそ、次[つぎ]の時代[じだい]を生きる[いきる]ための何[なん]かがあると信じ[しんじ]たいと思っ[おもっ]ています」。嘘[うそ]ではなかった。怖く[こわく]ないと言え[いえ]ば嘘[うそ]になる。だが、師[し]の言葉[ことば]が、今[いま]も胸[むね]の奥[おく]で燃え[もえ]ていた。
手紙[てがみ]を折り[おり]、封[ふう]をする。外[そと]では、夜風[よかぜ]が江戸湾[えどわん]の方角[ほうがく]から吹き込ん[ふきこん]でいた。潮[しお]の匂い[におい]に混じっ[まじっ]て、何[なん]か違う[ちがう]ものの気配[けはい]がした――煙[けむり]か、それとも自分[じぶん]の錯覚[さっかく]か。誠之助[せいのすけ]は行灯[あんどん]の火[ひ]を見つめ[みつめ]ながら、ふと思っ[おもっ]た。この炎[ほのお]が消え[きえ]たとき、自分[じぶん]はどんな世界[せかい]に目[め]を覚ます[さます]のだろう、と。翌朝[よくあさ]、浦賀[うらが]の沖[おき]に黒い[くろい]煙突[えんとつ]が見え[みえ]た。