Tám năm của một tuyển thủ bơi lội được chọn cho Thế vận hội Tokyo trong mơ
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1940年2月のある朝、十八歳の藤田洋介は新聞を手に固まった。見出しには「第十二回オリンピック東京大会、開催困難か」と書かれていた。前年の秋、百メートル背泳ぎで日本新記録を樹立した藤田は、つい先週、正式に東京五輪の代表選手として内定の通知を受け取ったばかりだった。まさに夢が現実になろうとした瞬間に、その夢は音もなく崩れ始めていた。
子どもの頃から、藤田は水の中でしか本当の自分を感じられなかった。名古屋郊外の川で泳ぎを覚え、中学に進んでからはほぼ毎朝、夜明け前にプールへ向かった。コーチの岡田は普段ほとんど褒めない人だったが、藤田のフォームを見るたびに決まってこう言った。「お前の手のかき方は、本物だ。」その短い言葉が、藤田には勲章よりも重く響いた。
1940年7月、日本政府はオリンピックの開催権を正式に返上した。公式の理由は「戦時下の情勢への配慮」だったが、誰も声に出してその先を語ろうとしなかった。藤田は内定通知の書類を引き出しの奥にしまったまま、捨てることができなかった。捨てれば、何かが終わる気がした。
その後、時代は加速するように暗くなっていった。戦争が拡大し、プールは次第に軍の施設へと転用された。若者たちは召集され、藤田もまた例外ではなかった。二十一歳で入隊し、南方の島へ渡った。そこで彼が密かに続けたのは、夜の海岸を走りながら腕を振るだけの「泳ぎのない練習」だった。端から見ればどれほど滑稽に映ったとしても、やめる理由が彼にはなかった。
1945年、敗戦。焼け野原になった街を歩きながら、藤田は「もう競技には戻れないかもしれない」と思った。二十四歳。アスリートとしての盛りは、すでに過ぎつつあった。
しかし、岡田コーチは生きていた。
終戦から半年後、ふたりは名古屋の駅前で偶然再会した。岡田の髪には白いものが目立つようになっていたが、その目だけは以前と変わらなかった。「お前の記録は、まだ破られていないぞ。」それだけだった。それでも、その夜、藤田は再びプールへ戻る決意をした。
復帰後の一年半は、苦痛の連続だった。戦中に衰えた体はなかなか感覚を取り戻さず、タイムは全盛期と比べて三秒以上遅かった。「年齢的にもう限界だ」という声も周囲から聞こえた。それでも藤田は、毎朝五時にプールに現れた。岡田は何も言わなかった。ただ、いつもそこにいた。
1948年、ロンドンオリンピックの選考会。藤田は二十七歳。当時の競技水準では高齢とみなされていたが、予選で出したタイムは自己の日本記録をわずかに更新していた。
ロンドンのプールは、想像していたよりもずっと静かだった。スタート台に立ち、水面を見下ろしたとき、藤田はふと、八年前の自分を思った。代表通知を手にして笑顔だった、十八歳の自分を。水に飛び込んだ瞬間、世界の音が消えた。
結果は五位だった。表彰台には届かなかった。
帰国後、ある記者から「メダルなしでは悔しくないのですか」と問われたとき、藤田はしばらく間を置いてから、静かに答えた。
「八年前に、答えはもうもらっていました。」記者は首をかしげた。藤田はそれ以上何も言わなかった。幻のオリンピックに選ばれたあの日、彼はすでに水泳選手として認められていた。戦争も、失われた時間も、その事実だけは消せなかった。ロンドンのプールは、その答えを確かめるための場所にすぎなかったのかもしれない。