बंद लाइन के अंत में छोड़ा गया वापसी टिकट
B1 · Mystery
田中[たなか]さくらが古い[ふるい]駅舎[えきしゃ]に入っ[はいっ]たとき、窓[まど]から差し込む[さしこむ]光[ひかり]の中[なか]に埃[ほこり]が静か[しずか]に舞っ[まっ]ていた。
さくらは雑誌[ざっし]のライターとして、この夏[なつ]、廃線[はいせん]になった鉄道[てつどう]の終点[しゅうてん]駅[えき]を調べ[しらべ]ていた。駅[えき]は三十[さんじゅう]年[ねん]前[まえ]に廃線[はいせん]になったが、駅舎[えきしゃ]はまだ残っ[のこっ]ていた。地元[じもと]の人[ひと]たちが「思い出[おもいで]の場所[ばしょ]」として、建物[たてもの]を守り[まもり]続け[つづけ]ていたからだ。
待合室[まちあいしつ]のベンチに座っ[すわっ]て、さくらはノートを開い[ひらい]た。そのとき、床[ゆか]の隅[すみ]に何[なん]かが落ち[おち]ているのに気づい[きづい]た。黄色く[きいろく]なった古い[ふるい]紙[かみ]だった。拾い上げ[ひろいあげ]てみると、それは往復切符[おうふくきっぷ]だった。
――「南山駅[なんざんえき] → 終点[しゅうてん]・霧[きり]ヶ浜駅[はまえき]」往復[おうふく] 平成[へいせい]六[ろく]年[ねん]八[はち]月[がつ]十五[じゅうご]日[にち]
切符[きっぷ]は二[に]枚[まい]つながっていた。行き[いき]の部分[ぶぶん]には「使用[しよう]済み[ずみ]」と印[しるし]が押さ[おさ]れていたが、帰り[かえり]の部分[ぶぶん]には何[なん]も印[しるし]がなかった。つまり、誰[だれ]かがここまで来[き]て、帰ら[かえら]なかったということだ。
どうして帰ら[かえら]なかったんだろう。
その疑問[ぎもん]が、さくらの頭[あたま]の中[なか]でぐるぐると回り[まわり]始め[はじめ]た。
翌日[よくじつ]、さくらは駅[えき]のそばにある小さな[ちいさな]食堂[しょくどう]で、地元[じもと]に長く[ながく]住ん[すん]でいる老人[ろうじん]、松本[まつもと]さんと話す[はなす]ことができた。松本[まつもと]さんは八十[はちじゅう]代[だい]で、この地域[ちいき]のことをよく知っ[しっ]ていた。
「この切符[きっぷ]のことを聞い[きい]てもいいですか」
さくらはテーブルの上[うえ]に切符[きっぷ]を置い[おい]た。松本[まつもと]さんは眼鏡[めがね]をかけなおして、切符[きっぷ]を静か[しずか]に見つめ[みつめ]た。しばらくして、深く[ふかく]ため息[ためいき]をついた。
「平成[へいせい]六[ろく]年[ねん]の夏[なつ]か……」松本[まつもと]さんはゆっくりと言っ[いっ]た。「あの頃[ころ]、この駅[えき]で終わっ[おわっ]たことがあったよ」
「終わっ[おわっ]たこと、というのは?」
「若い[わかい]女[おんな]の人[ひと]がね、ここまで一人[ひとり]で来[き]た。この霧[きり]ヶ浜[はま]に親戚[しんせき]がいたわけじゃない。ただ、何[なん]かから逃げ[にげ]てきたように見え[みえ]た。駅[えき]から歩い[あるい]て、海[うみ]が見える[みえる]丘[おか]まで行っ[いっ]て、そこでずっと海[うみ]を見[み]ていたらしい」
松本[まつもと]さんは少し[すこし]間[あいだ]を置い[おい]た。さくらは何[なん]も言わ[いわ]ずに待っ[まっ]た。
「帰り[かえり]の電車[でんしゃ]には乗ら[のら]なかった。でも、死ん[しん]だとか、そういうことじゃない」松本[まつもと]さんは首[くび]を横[よこ]に振っ[ふっ]た。「翌朝[よくあさ]、村[むら]の人[ひと]が彼女[かのじょ]を見つけ[みつけ]たとき、彼女[かのじょ]はもう笑っ[わらっ]ていたんだ。その後[ご]、この村[むら]に残る[のこる]ことにして、結婚[けっこん]して、子供[こども]も生まれ[うまれ]た。ただ……何[なん]年[ねん]かして、どこかへ行っ[いっ]てしまった」
さくらはじっと聞い[きい]ていた。切符[きっぷ]を見つめ[みつめ]ながら、胸[むね]の中[なか]で何[なん]かがゆっくりと動く[うごく]気[き]がした。
「その人[ひと]の名前[なまえ]……田中[たなか]、じゃなかったですか」
さくらが聞く[きく]と、松本[まつもと]さんは目[め]を丸く[まるく]した。「なぜ……それを知っ[しっ]ているんだ?」「田中[たなか]は私[わたくし]の母[はは]の旧姓[きゅうせい]です。母[はは]が若い[わかい]ころ、何[なん]かから逃げよう[にげよう]としたことがある、と祖母[そぼ]がかつて話し[はなし]ていました。でも、詳しい[くわしい]ことは教え[おしえ]てくれなかった」
さくらの手[て]が少し[すこし]震え[ふるえ]ていた。松本[まつもと]さんはそっとうなずいた。「そうか。あなたがここに来[き]たのは、偶然[ぐうぜん]じゃなかったかもしれないね」
帰り道[かえりみち]、さくらは切符[きっぷ]を手[て]に持っ[もっ]たまま、駅[えき]のホームに一人[ひとり]で立っ[たっ]た。線路[せんろ]はもう草[くさ]に埋もれ[うずもれ]ていて、電車[でんしゃ]が来る[くる]ことは二[に]度[ど]とない。それでも、その場所[ばしょ]にはまだ何[なん]かが残っ[のこっ]ている気[き]がした。
使わ[つかわ]れなかった帰り[かえり]の切符[きっぷ]。それは、戻ら[もどら]ないことを選ん[えらん]だ証明[しょうめい]ではなく、もしかしたら、ここから始まる[はじまる]ことを選ん[えらん]だ証明[しょうめい]だったのかもしれない。
さくらはゆっくりと切符[きっぷ]を胸[むね]のポケットにしまった。今夜[こんや]、母[はは]に電話[でんわ]しようと思っ[おもっ]た。聞き[きき]たいことが、たくさんあった。