Az eltűnt vendégkönyv a régi fogadóból
B1 · Mystery
水木[みずき]が湯[ゆ]の沢[さわ]温泉[おんせん]に着い[つい]たのは、夕方[ゆうがた]の五[ご]時[じ]過ぎ[すぎ]だった。バスを降りる[おりる]と、山[やま]の冷たい[つめたい]空気[くうき]が肺[はい]に入っ[はいっ]てきた。細い[ほそい]石畳[いしだたみ]の道[みち]を歩い[あるい]て、「竹[たけ]乃[の]湯[ゆ]」という古い[ふるい]旅館[りょかん]に到着[とうちゃく]した。
「いらっしゃいませ。」受付[うけつけ]に立っ[たっ]ていたのは、七十[ななじゅう]代[だい]くらいの男性[だんせい]だった。胸[むね]の名札[なふだ]には「田中[たなか]」と書い[かい]てあった。
水木[みずき]は少し[すこし]緊張[きんちょう]しながら、バッグから古い[ふるい]日記[にっき]を取り出し[とりだし]た。「変[へん]なお願い[おねがい]があるのですが、一九七五[いちきゅうななご]年[ねん]の宿帳[やどちょう]を見せ[みせ]ていただけませんか。祖母[そぼ]が五十[ごじゅう]年[ねん]前[まえ]にこちらに泊まっ[とまっ]たようで、どんな旅[たび]だったか知り[しり]たいんです。」
田中[たなか]さんの表情[ひょうじょう]が、わずかに変わっ[かわっ]た。「宿帳[やどちょう]ですか…。」「はい。祖母[そぼ]は去年[きょねん]亡くなり[なくなり]ました。遺品[いひん]の日記[にっき]を整理[せいり]していたら、この旅館[りょかん]のことが書い[かい]てあって。」
田中[たなか]さんはしばらく黙っ[だまっ]ていた。それから、静か[しずか]にこう言っ[いっ]た。「申し訳[もうしわけ]ないのですが、一九七五[いちきゅうななご]年[ねん]の宿帳[やどちょう]だけが、見当たら[みあたら]ないのです。他[ほか]の年[とし]は全部[ぜんぶ]あるのに。」「その年[とし]だけ、ですか。」「そうなんです。私[わたくし]も不思議[ふしぎ]に思っ[おもっ]ています。」
水木[みずき]は何[なん]か引っかかり[ひっかかり]を感じ[かんじ]た。でも、それ以上[いじょう]は聞け[きけ]なかった。
部屋[へや]に案内[あんない]されると、水木[みずき]は壁[かべ]にかかった一[いち]枚[まい]の古い[ふるい]写真[しゃしん]に気づい[きづい]た。この旅館[りょかん]の白黒[しろくろ]写真[しゃしん]で、玄関[げんかん]の前[まえ]に着物姿[きものすがた]の女性[じょせい]が立っ[たっ]ていた。写真[しゃしん]の隅[すみ]に、玄関[げんかん]のタイルが少し[すこし]見え[みえ]た。
水木[みずき]は祖母[そぼ]の日記[にっき]をもう一度[いちど]開い[ひらい]た。一九七五[いちきゅうななご]年[ねん]八[はち]月[がつ]のページに、こんな一[いち]文[ぶん]があった。「竹[たけ]乃[の]湯[ゆ]の玄関[げんかん]のタイルに、すみれを一[いち]本[ぽん]置い[おい]てきた。私たち[わたしたち]の夏[なつ]を、誰[だれ]かが見[み]てくれているといいと思っ[おもっ]た。」
すみれ。水木[みずき]は写真[しゃしん]に顔[かお]を近づけ[ちかづけ]た。確か[たしか]に、タイルの上[うえ]に小さな[ちいさな]何[なん]かが置か[おか]れているように見え[みえ]た。これは偶然[ぐうぜん]ではないかもしれない。水木[みずき]は部屋[へや]の中[なか]を、もう少し[すこし]注意[ちゅうい]深く[ふかく]見回し[みまわし]た。箪笥[たんす]、壁[かべ]、床の間[とこのま]…。それから、小さな[ちいさな]引き出し[ひきだし]に気づい[きづい]た。開け[あけ]てみると、観光[かんこう]パンフレットと地図[ちず]が入っ[はいっ]ていた。でも、引き出し[ひきだし]の一番[いちばん]奥[おく]に、何[なん]か硬い[かたい]ものが指先[ゆびさき]に触れ[ふれ]た。
取り出し[とりだし]てみると、黄[き]ばんだ一[いち]枚[まい]の紙[かみ]だった。慎重[しんちょう]に広げる[ひろげる]と、そこには名前[なまえ]と日付[ひづけ]が並ん[ならん]でいた。一九七五[いちきゅうななご]年[ねん]八[はち]月[がつ]十四[じゅうよん]日[か]。宿帳[やどちょう]の一[いち]ページだった。水木[みずき]の心臓[しんぞう]が少し[すこし]速く[はやく]なった。名前[なまえ]のリストの中[なか]に、「村上[むらかみ]幸子[さちこ]」という名前[なまえ]があった。祖母[そぼ]の名前[なまえ]だ。その隣[となり]には、男性[だんせい]の名前[なまえ]。「佐藤[さとう]誠一[せいいち]」。ページの下[した]には、鉛筆[えんぴつ]で小さな[ちいさな]字[じ]が書い[かい]てあった。「このページは残し[のこし]ておく。幸子[さちこ]さんのために。」
翌朝[よくあさ]、朝食[ちょうしょく]のあと、水木[みずき]は田中[たなか]さんに声[こえ]をかけた。「昨日[きのう]の宿帳[やどちょう]の件[けん]なのですが、部屋[へや]の引き出し[ひきだし]の奥[おく]にこれが入っ[はいっ]ていました。」田中[たなか]さんはそのページを見[み]て、長い[ながい]間[あいだ]、黙り込ん[だまりこん]でいた。
「…父[ちち]の字[じ]ですね。」とようやく口[くち]を開い[ひらい]た。「父[ちち]はここの先代[せんだい]の主人[しゅじん]でした。あなたのお祖母[そぼ]さんのことを、生前[せいぜん]よく話し[はなし]ていました。とても素敵[すてき]なお客さん[おきゃくさん]だったと。」「なぜ、宿帳[やどちょう]からこのページを抜き取っ[ぬきとっ]て隠し[かくし]たんでしょうか。」
田中[たなか]さんはゆっくり息[いき]をついた。「当時[とうじ]は、若い[わかい]男女[だんじょ]が二人[ふたり]で旅[たび]をすることは、世間[せけん]からあまりよく見[み]られませんでした。でも、お二人[ふたり]はとても幸せ[しあわせ]そうで、父[ちち]はその記憶[きおく]を守り[まもり]たかったんだと思い[おもい]ます。消し[けし]てしまうのではなく、誰[だれ]かにとって大切[たいせつ]なものとして残し[のこし]ておきたかった。それで隠し[かくし]たのでしょう。」
水木[みずき]は胸[むね]が痛く[いたく]なった。祖母[そぼ]は後[あと]に別[べつ]の男性[だんせい]と結婚[けっこん]し、普通[ふつう]の主婦[しゅふ]として生涯[しょうがい]を終え[おえ]た。日記[にっき]には「S」という一[いち]文字[もじ]が何度[なんど]か出[で]てくるだけで、この旅[たび]のことは詳しく[くわしく]書か[かか]れていなかった。佐藤[さとう]誠一[せいいち]。「S」はこの人[ひと]だったのかもしれない。「佐藤[さとう]さんという方[かた]は、その後[そのあと]…。」「分かり[わかり]ません。でも、父[ちち]はずっと二人[ふたり]のことを覚え[おぼえ]ていました。」
帰り[かえり]のバスに乗り[のり]ながら、水木[みずき]は窓[まど]の外[そと]の山[やま]を見[み]ていた。手[て]の中[なか]には、その古い[ふるい]一[いち]ページがある。田中[たなか]さんが「持っ[もっ]ていってください」と言っ[いっ]たのだ。祖母[そぼ]は五十[ごじゅう]年間[ねんかん]、この旅[たび]の話[はなし]を一度[いちど]もしなかった。でも、日記[にっき]にそっと書き残し[かきのこし]ていた。すみれの花[はな]と、「S」という一[いち]文字[もじ]を。人[ひと]は誰[だれ]でも、語ら[かたら]れない物語[ものがたり]を持っ[もっ]ているのかもしれない。祖母[そぼ]のことを、水木[みずき]は少し[すこし]違う[ちがう]目[め]で見る[みる]ようになった気[き]がした。旅館[りょかん]の前[まえ]では、田中[たなか]さんがバスが見え[みえ]なくなるまで立っ[たっ]ていた。