Drojdia de koji din pivnița de sake adusă din captivitatea siberiană
B2 · Food & Cuisine
宮崎義雄が舞鶴港の岸壁に降り立ったのは、昭和二十五年の初秋だった。骨と皮だけになった体に古い軍の上着をかけた彼は、他の引揚者たちとともに無言で歩いた。港では家族たちが名前を叫び、泣き声と波音が混じり合っていた。しかし宮崎の目は、迎えに来た人々よりも、自分の胸元に向いていた。右手を上着の内側にあて、確かめるように押さえながら歩いていた。その内ポケットには、小さな白い布袋があった。袋に何が入っているかを知っていたのは、彼の母だけだった。
昭和二十年の春、宮崎は満州へと向かう部隊に配属された。出発の前夜、母は台所で黙って何かを用意していた。翌朝、彼女は息子の手に小さな袋を握らせて言った。「これを持っていきなさい。蔵の麹じゃ」。宮崎家は、新潟の山間に小さな酒蔵を構えていた。百年以上続く蔵で、その麹菌は代々、同じ菌株を受け継いできた。菌は米と水と空気の中に生き、その蔵だけの酒を生み出してきた。母はその大切な菌を、出征する息子に持たせたのだ。「無事に帰ってきたら、また一緒に酒を造ろう」と母は言った。お守りのつもりだったかもしれない。しかし彼女は、乾燥させた麹米をわずかに袋に入れて渡した。生きた菌の胞子が、乾燥した状態でも眠り続けることを、長年の経験から知っていたのだ。
宮崎はその袋を、胸の内ポケットに入れた。八月、ソ連軍が満州に侵攻した。降伏した日本兵たちは武装解除され、シベリアへと送られた。マイナス三十度を超える寒さの中で木を切り、道路を作り、ひたすら労働した。食べ物は粗末で、多くの仲間が凍傷や栄養失調で倒れた。収容所では私物のほとんどが没収された。宮崎の袋も一度、ソ連の兵士に取り上げられかけた。しかし中身を確認した兵士は、古い米の欠片のようなものだと判断し、何も言わずに袋を返した。その夜、宮崎は木造の兵舎の隅で袋を手のひらに乗せ、長い時間見つめた。菌は今も生きているのだろうか。零下四十度の冬を超えて、この小さな袋の中に何かが残っているのか。答えはわからなかった。しかし捨てることは、帰ることを諦めることと同じだと感じた。五年間、袋は彼の胸元にあった。
舞鶴で出迎えてくれたのは、年老いた母と若い弟だった。母は息子の顔を見るなり、声も出さずに泣いた。「母さん、これ——」。宮崎は袋を取り出した。母はそれを見て、一瞬息をのんだ。「持ち帰ったのか」「持ち帰った」。新潟に戻り、蔵の中に入ったとき、宮崎は五年ぶりに蔵の空気を吸った。しかしかつての麹の甘い匂いはなく、ただ冷たい木と土の匂いだけがした。蔵は戦中から休業しており、静かに眠ったままだった。弟が静かに言った。「兄さん、本当に生きてると思うか」。宮崎は答えなかった。答えられるはずがなかった。彼は蒸した米を用意し、袋の中の粉を静かに振りかけた。温度と湿度を慎重に管理し、二日間、ただ待った。
三日目の朝、蔵の中にかすかな甘い匂いが立ちこめていた。弟が駆け込んできて、蒸し米の塊を見た。白い菌糸が、薄く、しかし確かに広がっていた。「生きてる」と弟が言った。宮崎は返事をしなかった。ただ、長い時間、その白い米の上に顔を近づけ、目を閉じていた。シベリアの五年間、彼が胸元で守り続けたものが何だったのか——その答えは今、言葉を必要としなかった。