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ホタルが消えた川を一人で取り戻した男

宮本[みやもと]一郎[いちろう]が初めて[はじめて]ホタルを見[み]たのは、七[なな]歳[さい]のときだった。岐阜県[ぎふけん]の山間[さんかん]にある小さな[ちいさな]村[むら]で、夏[なつ]の夜[よる]、田んぼ[たんぼ]の横[よこ]を流れる[ながれる]蛍川[ほたるがわ]はまるで魔法[まほう]のように輝い[かがやい]ていた。何[が]千[せん]ものホタルが川[かわ]の上[うえ]で光[ひかり]を放ち[はなち]、少年[しょうねん]の目[め]には星[ほし]が地上[ちじょう]に降り[おり]てきたように見え[みえ]た。

しかし、一郎[いちろう]が大人[おとな]になるころ、その光[ひかり]は消え[きえ]ていた。

一九七〇[いちきゅうななれい]年[ねん]代[だい]、村[むら]の近く[ちかく]に工場[こうじょう]が建て[たて]られた。工場[こうじょう]から流れる[ながれる]汚水[おすい]が蛍川[ほたるがわ]に入り[はいり]、川底[かわぞこ]の泥[どろ]は黒く[くろく]なり、独特[どくとく]な臭い[におい]がするようになった。ホタルの幼虫[ようちゅう]が食べる[たべる]カワニナという小さな[ちいさな]巻き貝[まきがい]も、いつの間[あいだ]にかいなくなっていた。村[むら]の人々[ひとびと]はため息[ためいき]をついて言っ[いっ]た。「もう仕方[しかた]がない。ホタルは戻ら[もどら]ないだろう。」

一郎[いちろう]もそう思っ[おもっ]ていた。しかし、ある夜[よる]、五十[ごじゅう]歳[さい]になった一郎[いちろう]は夢[ゆめ]を見[み]た。七[なな]歳[さい]の自分[じぶん]が川[かわ]のそばで光[ひかり]を見つめ[みつめ]ている夢[ゆめ]だった。目[め]が覚め[さめ]たとき、彼[かれ]の心[こころ]には奇妙[きみょう]な決意[けつい]が生まれ[うまれ]ていた。

「一人[ひとり]でもやってみよう。」

翌朝[よくあさ]から、一郎[いちろう]は行動[こうどう]を始め[はじめ]た。まず、川岸[かわぎし]に積ま[つま]れたコンクリートブロックを少し[すこし]ずつ取り除き[とりのぞき]、川[かわ]が自然[しぜん]に曲がれる[まがれる]ようにした。川[かわ]が真っすぐ[まっすぐ]だと水[みず]が速く[はやく]流れ[ながれ]すぎて、ホタルの幼虫[ようちゅう]が育つ[そだつ]ことができないからだ。次[つぎ]に、川岸[かわぎし]に草[くさ]や低い[ひくい]木[き]を植え[うえ]た。木[き]の根[ね]が土[つち]をしっかり支える[ささえる]と、川[かわ]の水[みず]が澄ん[すん]でくることを、彼[かれ]は本[ほん]で読ん[よん]で知っ[しっ]ていた。

近所[きんじょ]の人々[ひとびと]は不思議[ふしぎ]そうに見[み]ていた。「一郎[いちろう]さん、何[なん]をしているの?」と隣[となり]の農家[のうか]の田村[たむら]さんが聞い[きい]た。「ホタルを戻そう[もどそう]としているんです」と一郎[いちろう]は答え[こたえ]た。田村[たむら]さんは少し[すこし]黙っ[だまっ]てから、「それは難しい[むずかしい]んじゃないかな」と言っ[いっ]た。

一郎[いちろう]はただ笑っ[わらっ]てうなずいた。難しい[むずかしい]ことはわかっていた。

三[さん]年間[ねんかん]、彼[かれ]は毎[まい]週末[しゅうまつ]、川[かわ]に通っ[かよっ]た。水質[すいしつ]を検査[けんさ]し、ゴミを拾い[ひろい]、植え[うえ]た木[き]の成長[せいちょう]を確認[かくにん]した。しかし、四[よん]年[ねん]目[め]の春[はる]、川岸[かわぎし]の工事[こうじ]のために植え[うえ]た木[き]が全部[ぜんぶ]抜か[ぬか]れてしまった。一郎[いちろう]は川[かわ]のそばにしゃがんで、長い[ながい]時間[じかん]、何[なん]も言わ[いわ]ずに水[みず]を見[み]ていた。

「また始めれ[はじめれ]ばいい」と、彼[かれ]はついに自分[じぶん]に言い聞かせ[いいきかせ]た。

もう一度[いちど]、木[き]を植え[うえ]た。

七[なな]年[ねん]目[め]の夏[なつ]。六[ろく]月[がつ]の終わり[おわり]のある夜[よる]、一郎[いちろう]は懐中電灯[かいちゅうでんとう]を持た[もた]ずに川[かわ]に向かっ[むかっ]た。いつものように暗かっ[くらかっ]た。しかし、川[かわ]に近づい[ちかづい]たとき、木の葉[このは]の間[あいだ]から小さな[ちいさな]光[ひかり]が見え[みえ]た。一[ひと]つではなかった。二[ふた]つ、三[みっ]つ、そして次第[しだい]に増え[ふえ]ていった。

ホタルだった。

一郎[いちろう]は息[いき]をのんだ。七[なな]歳[さい]の夏[なつ]の夜[よる]のことを思い出し[おもいだし]た。涙[なみだ]が出[で]たのか、川[かわ]の光[ひかり]が二[に]重[じゅう]に見え[みえ]た。

翌朝[よくあさ]、彼[かれ]は田村[たむら]さんに電話[でんわ]した。「来[き]てください。ホタルが戻っ[もどっ]てきました。」電話[でんわ]の向こう[むこう]で、田村[たむら]さんがしばらく黙っ[だまっ]ていた。それから、かすかな声[こえ]で言っ[いっ]た。「本当[ほんとう]に?」

今[いま]、蛍川[ほたるがわ]には毎年[まいとし]夏[なつ]になると何百[なんびゃく]ものホタルが光る[ひかる]。村[むら]の子どもたち[こどもたち]は宮本[みやもと]一郎[いちろう]のことを「ホタルのおじさん」と呼ぶ[よぶ]。一郎[いちろう]は今[いま]でも毎[まい]週末[しゅうまつ]、川[かわ]のそばを歩く[あるく]。彼[かれ]は「自分[じぶん]一人[ひとり]の力[ちから]じゃないよ。川[かわ]が自分[じぶん]で戻ろう[もどろう]としていたんだ。私[わたくし]はただ、その邪魔[じゃま]を取り除い[とりのぞい]ただけ」と言う[ゆう]。

しかし、村[むら]の人々[ひとびと]は知っ[しっ]ている。七[なな]年間[ねんかん]、一人[ひとり]で川[かわ]と向き合い[むきあい]続け[つづけ]たのは、彼[かれ]だけだった。