六十年間同じ道を歩いた男が初めて曲がった角
B2 · Daily Life
田中[たなか]哲郎[てつろう]は、六十[ろくじゅう]年間[ねんかん]、一度[いちど]も曲がっ[まがっ]たことのない角[かど]を今朝[けさ]初めて[はじめて]曲がっ[まがっ]た。七十八[ななじゅうはち]歳[さい]の田中[たなか]は、定年退職[ていねんたいしょく]してもう十三[じゅうさん]年[ねん]が経つ[たつ]にもかかわらず、毎朝[まいあさ]八[はち]時[じ]きっかりに家[いえ]を出[で]て、川沿い[かわぞい]の遊歩道[ゆうほどう]を二[に]十分[じゅうぶん]歩き[あるき]、商店街[しょうてんがい]を抜け[ぬけ]、郵便局[ゆうびんきょく]の前[まえ]を通っ[とおっ]て公園[こうえん]のベンチに座る[すわる]という習慣[しゅうかん]を続け[つづけ]ていた。妻[つま]の千代子[ちよこ]が生き[いき]ていた頃[ころ]は、彼女[かのじょ]もよく一緒[いっしょ]に歩い[あるい]た道[みち]だ。
三[さん]年[ねん]前[まえ]に千代子[ちよこ]が逝っ[いっ]てからも、田中[たなか]はこの道[みち]を変え[かえ]なかった。変える[かえる]ことが、できなかった、と言う[ゆう]べきかもしれない。この道[みち]は、彼[かれ]にとっての人生[じんせい]そのものだったからだ。その朝[あさ]、商店街[しょうてんがい]を抜け[ぬけ]たところで、田中[たなか]は前方[ぜんぽう]に一人[ひとり]の女性[じょせい]の後ろ姿[うしろすがた]を見[み]た。紺色[こんいろ]のコートに、白髪[はくはつ]を後ろ[うしろ]でまとめた姿[すがた]。歩き[あるき]方[かた]も、肩[かた]の落ち[おち]方[かた]も——どこか、千代子[ちよこ]に似[に]ていた。
もちろん、違う[ちがう]人[ひと]だとわかっていた。それでも足[あし]は、知ら[しら]ぬ間[ま]に速く[はやく]なっていた。女性[じょせい]は、田中[たなか]がいつも素通り[すどおり]していた角[かど]を、ためらいもなく曲がっ[まがっ]た。まるでそこに用[よう]があるかのように、自然[しぜん]に。田中[たなか]は立ち止まっ[たちどまっ]た。この角[かど]には、いつも何[なん]があるのだろう——と思っ[おもっ]たことは、実[じつ]はほとんどなかった。正確[せいかく]には、「何[なん]があるかを考え[かんがえ]ないようにしていた」のだ。ルーティンというものは、余計[よけい]な好奇心[こうきしん]を封じる[ふうじる]ことで成り立つ[なりたつ]ものだからだ。
しかし今日[きょう]は、角[かど]を曲がっ[まがっ]た。そこにあったのは、思いがけ[おもいがけ]ず小さな[ちいさな]路地[ろじ]だった。十[じゅう]メートルも進む[すすむ]と、古び[ふるび]た看板[かんばん]がぶら下がっ[ぶらさがっ]ている建物[たてもの]が現れ[あらわれ]た。「珈琲[こーひー] こなつ」——手書き[てがき]の文字[もじ]で、墨[すみ]が薄れ[うすれ]かけていた。ガラスの扉[とびら]の内側[うちがわ]に、温かい[あたたかい]橙色[だいだいいろ]の光[ひかり]が灯っ[ともっ]ていた。女性[じょせい]の姿[すがた]はもうどこにもなかった。
田中[たなか]は少し[すこし]の間[あいだ]、扉[とびら]の前[まえ]に立っ[たっ]ていた。それから、ゆっくりとドアノブを回し[まわし]た。カランコロンと、古風[こふう]なベルの音[おと]が鳴っ[なっ]た。中[なか]は想像[そうぞう]より広く[ひろく]、天井[てんじょう]が高かっ[たかかっ]た。壁[かべ]一面[いちめん]に白黒[しろくろ]写真[しゃしん]が飾ら[かざら]れていた。どれも古い[ふるい]写真[しゃしん]で、田中[たなか]には見覚え[みおぼえ]のある風景[ふうけい]——商店街[しょうてんがい]、川[かわ]沿い[そい]、遊歩道[ゆうほどう]——が写っ[うつっ]ていた。しかしどれも、自分[じぶん]が知っ[しっ]ている景色[けしき]よりずっと昔[むかし]の姿[すがた]だった。
焙煎[ばいせん]された豆[まめ]の香ばしい[こうばしい]匂い[におい]が、鼻[はな]をくすぐった。「いらっしゃいませ」カウンターの奥[おく]から、白髪[はくはつ]の老人[ろうじん]が声[こえ]をかけてきた。皺[しわ]の深い[ふかい]顔[かお]に、穏やか[おだやか]な目[め]。「お一人[ひとり]ですか?」「ええ」田中[たなか]は答え[こたえ]た。自分[じぶん]の声[こえ]が少し[すこし]かすれていることに、そのとき初めて[はじめて]気づい[きづい]た。「コーヒーを一杯[いっぱい]、いただけますか」「もちろん」老人[ろうじん]は言っ[いっ]て、コーヒーを淹れ[いれ]始め[はじめ]た。
静か[しずか]な店内[てんない]に、お湯[ゆ]を注ぐ[そそぐ]音[おと]だけが響く[ひびく]。「初めて[はじめて]ですね、お顔[かお]を見[み]たことがない」「ええ。知ら[しら]なかったもので」「四十[よんじゅう]年[ねん]前[まえ]にここで始め[はじめ]たんですがね」老人[ろうじん]は苦笑[くしょう]した。「あの角[かど]を曲がる[まがる]人[ひと]は、なかなかいないんですよ。皆[みな]さん、まっすぐ歩い[あるい]ていくから」
田中[たなか]は壁[かべ]の写真[しゃしん]を眺め[ながめ]た。一[いち]枚[まい]の前[まえ]で目[め]が止まっ[とまっ]た。若い[わかい]夫婦[ふうふ]が川[かわ]沿い[そい]で笑っ[わらっ]ている写真[しゃしん]だ。女性[じょせい]は白い[しろい]ワンピースを着[き]て、男性[だんせい]のほうに少し[すこし]寄りかかっ[よりかかっ]ていて、「これは?」「若い[わかい]頃[ころ]の私[わたくし]とカミさんですよ」老人[ろうじん]は柔らかく[やわらかく]笑っ[わらっ]た。「三十[さんじゅう]年[ねん]前[まえ]に逝き[いき]ましてね。写真[しゃしん]だけが残っ[のこっ]てる」田中[たなか]は何[なん]も言え[いえ]なかった。胸[むね]の奥[おく]が、熱く[あつく]なるような、あるいは冷たく[つめたく]なるような不思議[ふしぎ]な感覚[かんかく]に包ま[つつま]れた。
コーヒーが目[め]の前[まえ]に置か[おか]れた。深い[ふかい]琥珀[こはく]色[しょく]だった。外[そと]ではいつもと変わら[かわら]ない朝[あさ]の光[ひかり]が差し込ん[さしこん]でいるのに、今日[きょう]の光[ひかり]は、なぜかほんの少し[すこし]違う[ちがう]色[いろ]に見え[みえ]た。田中[たなか]は両手[りょうて]でカップを包み[つつみ]、初めて[はじめて]この店[みせ]の椅子[いす]に腰[こし]を下ろし[おろし]た。——六十[ろくじゅう]年間[ねんかん]、曲がら[まがら]なかった角[かど]の先[さき]に、これほど長い[ながい]時間[じかん]が眠っ[ねむっ]ていたとは。彼[かれ]はコーヒーを一口[ひとくち]飲ん[のん]だ。苦く[にがく]、そして少し[すこし]だけ甘かっ[あまかっ]た。それは、彼[かれ]がこれまで歩い[あるい]てきた人生[じんせい]の味[あじ]そのものだった。