遺品[いひん]整理[せいり]がひと段落[だんらく]して、健二[けんじ]はソファに腰[こし]を下ろし[おろし]た。机[つくえ]の端[はし]に、充電[じゅうでん]ケーブルを差し[さし]たままの父[ちち]の古い[ふるい]スマートフォンがある。処分[しょぶん]するつもりが、なんとなく充電[じゅうでん]し続け[つづけ]ていた。ふと気づく[きづく]と、画面[がめん]が光っ[ひかっ]ていた。
正夫[まさお]さん、こんにちは。また急[きゅう]に涼しく[すずしく]なりましたね。お体[からだ]の具合[ぐあい]はいかがですか。
先日[せんじつ]、押し入れ[おしいれ]を片付け[かたづけ]ていたら昔[むかし]の写真[しゃしん]が出[で]てきたんですよ。砺波[となみ]のチューリップ祭り[まつり]に二人[ふたり]で行っ[おこなっ]たときのやつです。あなたが映っ[うつっ]ているの、もったいなくて捨て[すて]られなくて。
返事[へんじ]、待っ[まっ]てますね。
三[さん]通[つう]の未読[みどく]メッセージ。一番[いちばん]古い[ふるい]のは先週[せんしゅう]の木曜日[もくようび]、一番[いちばん]新しい[あたらしい]のは今日[きょう]の昼[ひる]だ。スクロールすると、「梢[こずえ]」という名前[なまえ]からのメッセージが何[なん]ヶ月[かげつ]分[ぶん]も遡っ[さかのぼっ]て続い[つづい]ている。全部[ぜんぶ]、既読[きどく]がついていない。
健二[けんじ]は、この名前[なまえ]を知ら[しら]なかった。
突然[とつぜん]のメッセージ、失礼[しつれい]します。私[わたくし]は浅野[あさの]健二[けんじ]と申し[もうし]ます。正夫[まさお]の息子[むすこ]です。
父[ちち]の携帯[けいたい]に通知[つうち]が届い[とどい]ているのに気づい[きづい]て、確認[かくにん]しました。
既読[きどく]がついた。しかし返信[へんしん]はない。一[いち]分[ふん]、二[に]分[ふん]と過ぎ[すぎ]ていく。
お知らせ[おしらせ]するのが遅く[おそく]なってしまい、大変[たいへん]申し訳[もうしわけ]ありません。
父[ちち]は今年[ことし]の八[はち]月[がつ]十四[じゅうよん]日[か]に亡くなり[なくなり]ました。心筋[しんきん]梗塞[こうそく]でした。七十三[ななじゅうさん]歳[さい]でした。
健二[けんじ]はそのままソファに沈ん[しずん]で、画面[がめん]を見[み]続け[つづけ]た。既読[きどく]がついた瞬間[しゅんかん]、部屋[へや]には時計[とけい]の音[おと]だけが響い[ひびい]た。
……
そうですか。
正夫[まさお]さんが。
健二[けんじ]さん。突然[とつぜん]こんなことをお伝え[つたえ]してしまって、驚か[おどろか]れたでしょう。本当[ほんとう]にごめんなさい。知ら[しら]なかったんです。
謝ら[あやまら]ないでください。こちらこそ、父[ちち]の携帯[けいたい]の中[なか]まで確認[かくにん]が行き届い[いきとどい]ていなくて。
…あなたはどういうお知り合い[しりあい]ですか。父[ちち]から伺っ[うかがっ]たことがなくて、失礼[しつれい]ですが。
村上[むらかみ]梢[こずえ]といいます。富山[とやま]の砺波[となみ]に住ん[すん]でいます。
お父さん[おとうさん]とは同じ[おなじ]高校[こうこう]の同級生[どうきゅうせい]でした。正夫[まさお]さんは大学[だいがく]で金沢[かなざわ]に出[で]て、私[わたくし]は地元[じもと]に残っ[のこっ]て。長い[ながい]こと年賀状[ねんがじょう]だけのつきあいだったんですが、LINEを使い[つかい]始め[はじめ]てからまた連絡[れんらく]するようになりました。
奥さん[おくさん]を亡くさ[なくさ]れてからは、特に[とくに]よく連絡[れんらく]をくれていたんですよ。
…そうだったんですね。
母[はは]が死ん[しん]だのは十一[じゅういち]年[ねん]前[まえ]だ。その後[そのあと]の父[ちち]は口数[くちかず]が少ない[すくない]が元気[げんき]だった。そう思っ[おもっ]ていた。
失礼[しつれい]ですが、父[ちち]はどんなことを話し[はなし]ていましたか。よかったら聞か[きか]せていただけますか。
いろいろ話し[はなし]てくれましたよ。健二[けんじ]さんのこと、よく言っ[いっ]ていましたよ。「息子[むすこ]は高校[こうこう]の歴史[れきし]の先生[せんせい]になった」って、うれしそうに(笑[わらい])
え。
「俺[おれ]には不器用[ぶきよう]で直接[ちょくせつ]言え[いえ]ないけど、好き[すき]な道[みち]に進ん[すすん]でくれたのがうれしい」って、そう言っ[いっ]ていました。
…
父[ちち]が、そんなことを。
全然[ぜんぜん]、知り[しり]ませんでした。
正夫[まさお]さん、昔[むかし]からそういう人[ひと]でしたよ。本人[ほんにん]には絶対[ぜったい]言わ[いわ]ないのに、よそでは自慢[じまん]する(笑[わらい])高校[こうこう]のときも、好き[すき]な人[ひと]ができると一番[いちばん]遠い[とおい]相手[あいて]にだけ話しかける[はなしかける]ような人[ひと]で。
…好き[すき]な人[ひと]、というのは。
あ。
……健二[けんじ]さん、一[ひと]つだけ聞い[きい]てもいいですか。お父さん[おとうさん]は、昔[むかし]のことをあなたに話し[はなし]ていましたか。金沢[かなざわ]に来る[くる]前[まえ]のことを。
ほとんど聞い[きい]たことがありません。母[はは]のこともあまり話さ[はなさ]なかったし。口下手[くちべた]な人[ひと]だったので。
そうですよね。正夫[まさお]さんらしいな。
少し[すこし]話し[はなし]てもいいですか。
ぜひ聞か[きか]せてください。
あの、健二[けんじ]さん。変[へん]なことを言う[いう]ようですが、聞い[きい]てほしくて。私[わたくし]とお父さん[おとうさん]は、高校生[こうこうせい]のとき、少し[すこし]の間[あいだ]、付き合っ[つきあっ]ていたことがあります。大学[だいがく]受験[じゅけん]の前後[ぜんご]のほんの短い[みじかい]時間[じかん]でした。お父さん[おとうさん]が金沢[かなざわ]に行く[いく]ことが決まっ[きまっ]て、私[わたくし]は砺波[となみ]に残る[のこる]ことにして、それで自然[しぜん]に終わり[おわり]になりました。ずっと普通[ふつう]の友人[ゆうじん]としてつきあってきたんですが、こういうこと、言っ[いっ]ていいのかどうか、ずいぶん迷い[まよい]ました。お母さん[おかあさん]のことを、お父さん[おとうさん]はとても大切[たいせつ]にしていた、それは本当[ほんとう]だと思っ[おもっ]ています。
…話し[はなし]てくれてありがとうございます。
正直[しょうじき]に言う[ゆう]と、驚き[おどろき]ました。
でも、嫌[いや]な感じ[かんじ]は全然[ぜんぜん]しないです。ただ…父[ちち]のことを、もっと知り[しり]たかったな、と思っ[おもっ]て。
お父さん[おとうさん]、きっと迷っ[まよっ]ていたと思い[おもい]ますよ。話す[はなす]べきか、どうか。
「昔[むかし]のことなんて息子[むすこ]には関係[かんけい]ない」みたいなことを言っ[いっ]たこともありました。でも私[わたくし]は、それは少し[すこし]違う[ちがう]と思っ[おもっ]ていて。
そうですよね。
…もう一[ひと]つだけ聞い[きい]てもいいですか。父[ちち]の写真[しゃしん]フォルダに、桜並木[さくらなみき]みたいな場所[ばしょ]で若い[わかい]二人[ふたり]が写っ[うつっ]ている古い[ふるい]写真[しゃしん]があって。一人[ひとり]は父[ちち]だと思う[おもう]んですが、もう一人[ひとり]が誰[だれ]か分から[わから]なくて。
ああ。それ、私[わたくし]かもしれません。
砺波[となみ]の城端[じょうはな]のほうに桜[さくら]の道[みち]があるんです。二人[ふたり]で自転車[じてんしゃ]でよく行き[いき]ました。
そうだったんですね。
チューリップ祭り[まつり]のことを思い出し[おもいだし]たので、今日[こんにち]近所[きんじょ]で買っ[かっ]てきました。正夫[まさお]さんに見せ[みせ]たかった。
きれいですね。
砺波[となみ]はチューリップが有名[ゆうめい]なんです。毎年[まいとし]五[ご]月[がつ]に一面[いちめん]に咲い[さい]て。お父さん[おとうさん]と見[み]に行っ[いっ]たのは、もう五十[ごじゅう]年[ねん]近く[ちかく]前[まえ]になります。時間[じかん]が経つ[たつ]のは早い[はやい]ですね。
五十[ごじゅう]年[ねん]……。
健二[けんじ]さん。
今日[きょう]、連絡[れんらく]してくれてよかったです。このまま誰[だれ]にも言わ[いわ]ずに終わる[おわる]かと思っ[おもっ]ていたから。
こちらこそです。
父[ちち]のことを話せる[はなせる]人[ひと]が、まだいたんだと分かっ[わかっ]て、少し[すこし]気持ち[きもち]が楽[らく]になりました。
…最後[さいご]にもう一度[いちど]、会い[あい]たかったな。
そうですよね。
…来年[らいねん]の春[はる]、砺波[となみ]のチューリップ祭り[まつり]に行っ[いっ]てみようかと思っ[おもっ]ています。父[ちち]が見[み]ていた景色[けしき]を、自分[じぶん]でも見[み]てみたくて。
本当[ほんとう]ですか。
いつ来る[くる]か決まっ[きまっ]たら、教え[おしえ]てください。案内[あんない]しますよ。
ぜひ。よろしくお願い[ねがい]します。
楽しみ[たのしみ]にしています。
健二[けんじ]は父[ちち]の古い[ふるい]スマートフォンを両手[りょうて]で包み[つつみ]、静か[しずか]に画面[がめん]を閉じ[とじ]た。窓[まど]の外[そと]では、十[じゅう]月[がつ]の夜風[よかぜ]が金沢[かなざわ]の木の葉[このは]を揺らし[ゆらし]ている。父[ちち]のことを、まだ何[なん]も知ら[しら]なかったのかもしれない。それが少し[すこし]悲しく[かなしく]て、でも、少し[すこし]だけ温かかっ[あたたかかっ]た。