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深夜バスの終点で見つけた名もない温泉宿

健二[けんじ]は深夜[しんや]バスの座席[ざせき]で眠っ[ねむっ]ていました。彼[かれ]は仕事[しごと]で失敗[しっぱい]して、その日[ひ]、上司[じょうし]にひどく怒ら[おこら]れました。夜[よる]になって、「どこか遠く[とおく]へ行き[いき]たい」と思い[おもい]ました。バスターミナルで、一番[いちばん]最初[さいしょ]に来[き]たバスに乗り[のり]ました。どこへ行く[いく]バスか、確認[かくにん]しませんでした。

気[き]がつくと、バスは止まっ[とまっ]ていました。「終点[しゅうてん]です」と運転手[うんてんしゅ]が静か[しずか]に言い[いい]ました。

窓[まど]の外[そと]は真っ暗[まっくら]でした。山[やま]の中[なか]の小さな[ちいさな]バス停[ばすてい]でした。他[ほか]の乗客[じょうきゃく]は誰[だれ]もいませんでした。健二[けんじ]がバスを降りる[おりる]と、冷たい[つめたい]空気[くうき]が顔[かお]に当たり[あたり]ました。東京[とうきょう]では見え[みえ]ない星[ほし]が、たくさん空[そら]にありました。「次[つぎ]のバスは朝[あさ]の六[ろく]時[じ]です」と運転手[うんてんしゅ]は言っ[いっ]て、バスはすぐに去り[さり]ました。

スマートフォンを見る[みる]と、電波[でんぱ]がありませんでした。時計[とけい]は午前[ごぜん]二[に]時[じ]でした。困っ[こまっ]ていると、道[みち]の先[さき]に小さな[ちいさな]灯り[あかり]が見え[みえ]ました。歩い[あるい]て行く[いく]と、古い[ふるい]木造[もくぞう]の建物[たてもの]がありました。看板[かんばん]はありませんでした。でも、玄関[げんかん]の布[ぬの]に「温泉[おんせん]」と書い[かい]てありました。

健二[けんじ]はドアをノックしました。しばらくして、白い[しろい]着物[きもの]のお婆[ばあ]さんが出[で]てきました。「迷い込み[まよいこみ]ましたか」とお婆[ばあ]さんは言い[いい]ました。驚い[おどろい]た様子[ようす]ではありませんでした。「あの、一[いち]晩[ばん]、泊め[とめ]てもらえますか」と健二[けんじ]は聞き[きき]ました。「どうぞ」とお婆[ばあ]さんは言い[いい]ました。「ちょうど空い[あい]ています。お風呂[ふろ]も、今夜[こんや]は入れ[いれ]ますよ」

部屋[へや]は小さかっ[ちいさかっ]たけれど、清潔[せいけつ]でした。布団[ふとん]は温かく[あたたかく]て、少し[すこし]懐かしい[なつかしい]匂い[におい]がしました。温泉[おんせん]は建物[たてもの]の裏[うら]にありました。露天風呂[ろてんぶろ]でした。健二[けんじ]は一人[ひとり]でお湯[ゆ]に入り[はいり]ました。空[そら]には大きな[おおきな]月[つき]がありました。山[やま]の中[なか]は、本当[ほんとう]に静か[しずか]でした。

お湯[ゆ]はほんの少し[すこし]硫黄[いおう]の匂い[におい]がしました。その匂い[におい]を嗅い[かい]だ時[とき]、健二[けんじ]は突然[とつぜん]、目[め]から涙[なみだ]が出[で]てきました。なぜかは、よくわかりませんでした。疲れ[つかれ]ていたからかもしれません。ずっと頑張り[がんばり]続け[つづけ]ていたからかもしれません。

翌朝[よくあさ]、お婆[ばあ]さんが朝ごはん[あさごはん]を持っ[もっ]てきました。白い[しろい]ご飯[ごはん]と、山菜[さんさい]の味噌汁[みそしる]でした。「少し[すこし]、顔[かお]が変わり[かわり]ましたね」とお婆[ばあ]さんは言い[いい]ました。「そうですか」と健二[けんじ]は答え[こたえ]ました。「ここのお湯[ゆ]はね、余計[よけい]なものを洗い流し[あらいながし]てくれますよ」とお婆[ばあ]さんは言い[いい]ました。「いいことも、悪い[わるい]ことも」

健二[けんじ]はうなずきました。その言葉[ことば]の意味[いみ]は、すぐにはわかりませんでした。でも、悪い[わるい]気持ち[きもち]はしませんでした。チェックアウトの時[とき]、健二[けんじ]は「この宿[やど]の名前[なまえ]はなんですか」と聞き[きき]ました。「名前[なまえ]はないんです」とお婆[ばあ]さんは答え[こたえ]ました。そして、少し[すこし]笑い[わらい]ました。「でも、来る[くる]人[ひと]は、みんなちゃんと来[き]ますよ」

バス停[ばすてい]へ戻り[もどり]ながら、健二[けんじ]はスマートフォンを見[み]ました。少し[すこし]電波[でんぱ]がありました。上司[じょうし]からのメッセージが三[みっ]つありました。でも、健二[けんじ]はすぐには返事[へんじ]をしませんでした。バスに乗る[のる]前[まえ]に、振り返り[ふりかえり]ました。木々[きぎ]の間[あいだ]から、あの古い[ふるい]宿[やど]の屋根[やね]が少し[すこし]だけ見え[みえ]ました。東京[とうきょう]へ帰る[かえる]バスの中[なか]で、健二[けんじ]は眠り[ねむり]ませんでした。今度[こんど]は、ずっと窓[まど]の外[そと]を見[み]ていました。