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小豆島の醤油蔵に残った最後の木桶

小豆島[しょうどしま]に戻っ[もどっ]たとき、田中[たなか]ゆきはその匂い[におい]をすぐに思い出し[おもいだし]た。醤油[しょうゆ]の、深く[ふかく]て少し[すこし]甘い[あまい]匂い[におい]だ。子ども[こども]のころ、祖母[そぼ]の醤油[しょうゆ]蔵[ぞう]でよく遊ん[あそん]でいた。でも今[いま]は、蔵[くら]の中[なか]はずっと静か[しずか]になっていた。

「これを売っ[うっ]てほしいんです」大阪[おおさか]から来[き]た男[おとこ]、村田[むらた]さんが言っ[いっ]た。彼[かれ]はグレーのスーツを着[き]ていて、どう見[み]ても島[しま]の人[ひと]ではなかった。村田[むらた]さんは蔵[くら]の隅[すみ]にある古い[ふるい]木桶[きおけ]の前[まえ]に立っ[たっ]て、スマートフォンで写真[しゃしん]を撮っ[とっ]ていた。その木桶[きおけ]は高さ[たかさ]が二[に]メートルくらいあって、太い[ふとい]竹[たけ]の輪[わ]で締め[しめ]てある。まるで時間[じかん]が止まっ[とまっ]たように、ただ静か[しずか]に立っ[たっ]ていた。

「この木桶[きおけ]は売り物[うりもの]じゃありません」ゆきは言っ[いっ]たが、声[こえ]が少し[すこし]震え[ふるえ]た。本当[ほんとう]のことを言う[ゆう]と、どうすればいいか、彼女[かのじょ]にも分から[わから]なかった。

祖母[そぼ]が去年[きょねん]亡くなっ[なくなっ]てから、ゆきが蔵[くら]を引き継い[ひきつい]だ。でも彼女[かのじょ]は東京[とうきょう]でデザインの仕事[しごと]をしていたし、醤油[しょうゆ]の作り方[つくりかた]をよく知ら[しら]なかった。蔵[くら]の他[ほか]の桶[おけ]は十[じゅう]年[ねん]前[まえ]にステンレスのタンクに変わっ[かわっ]ていた。だから、この木桶[きおけ]は本当[ほんとう]に最後[さいご]の一[ひと]つだった。

村田[むらた]さんは続け[つづけ]た。「この桶[おけ]は百五十[ひゃくごじゅう]年[ねん]以上[いじょう]前[まえ]に作ら[つくら]れたものです。大阪[おおさか]のレストランが展示[てんじ]品[ひん]として欲し[ほし]がっています。100万[いちれいれいまん]円[えん]で買い取ら[かいとら]せていただけませんか」

100万[いちれいれいまん]円[えん]。ゆきは息[いき]をのんだ。蔵[くら]の修理[しゅうり]にもお金[おかね]がかかっていたし、正直[しょうじき]なところ、その金額[きんがく]は魅力的[みりょくてき]だった。「少し[すこし]考え[かんがえ]させてください」と彼女[かのじょ]は言っ[いっ]た。

その夜[よる]、ゆきは一人[ひとり]で蔵[くら]に入っ[はいっ]た。木桶[きおけ]の前[まえ]に立っ[たっ]て、古い[ふるい]木[き]の表面[ひょうめん]にそっと手[て]を触れ[ふれ]た。木[き]は少し[すこし]湿っ[しめっ]ていて、不思議[ふしぎ]と温かく[あたたかく]感じ[かんじ]た。桶[おけ]の中[なか]をのぞくと、まだ少し[すこし]醤油[しょうゆ]が残っ[のこっ]ていた。祖母[そぼ]が最後[さいご]に仕込ん[しこん]だものだろう。

試し[ためし]に、ゆきはその醤油[しょうゆ]を指[ゆび]で少し[すこし]なめてみた。深い[ぶかい]。すごく深い[ふかい]味[あじ]だった。毎日[まいにち]使っ[つかっ]ているステンレスタンクの醤油[しょうゆ]とは、全然[ぜんぜん]違う[ちがう]。甘[あま]さの中[なか]に、複雑[ふくざつ]な何[なん]かがあった。長い[ながい]時間[じかん]と、古い[ふるい]木[き]と、目[め]に見え[みえ]ない微生物[びせいぶつ]がたくさん入っ[はいっ]ているような、そんな味[あじ]だった。

翌朝[よくあさ]、ゆきは村田[むらた]さんに電話[でんわ]した。「やっぱり売れ[うれ]ません」と彼女[かのじょ]は言っ[いっ]た。「でも、一[ひと]つお願い[おねがい]があります。うちの醤油[しょうゆ]を持っ[もっ]て帰っ[かえっ]てください。プレゼントです。使っ[つかっ]てみてから、また話し[はなし]ましょう」

村田[むらた]さんは少し[すこし]驚い[おどろい]たようだった。「…分かり[わかり]ました」

二[に]週間[しゅうかん]後[ご]、村田[むらた]さんからメッセージが届い[とどい]た。「大阪[おおさか]のシェフが、あの醤油[しょうゆ]はどこで買える[かえる]かと聞い[きい]ています。もし販売[はんばい]するおつもりなら、シェフに話[はなし]をつないでみますが」

ゆきはメッセージを読ん[よん]で、しばらく考え[かんがえ]た。木桶[きおけ]を売る[うる]のではなく、木桶[きおけ]で作っ[つくっ]た醤油[しょうゆ]を売る[うる]。そうすれば、木桶[きおけ]は島[しま]に残る[のこる]。祖母[そぼ]が守っ[まもっ]てきたものも、残る[のこる]。彼女[かのじょ]はゆっくり返信[へんしん]した。「ありがとうございます。やってみます」

蔵[くら]の外[そと]では、秋[あき]の風[かぜ]が吹い[ふい]ていた。潮[しお]の匂い[におい]と醤油[しょうゆ]の匂い[におい]が混ざっ[まざっ]て、ゆきの鼻[はな]に届い[とどい]た。それは子ども[こども]のころに感じ[かんじ]た、あの匂い[におい]とまったく同じ[おなじ]だった。